長野規
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長野 規(ながの ただす 1926年1月13日 - 2001年11月24日)は編集者、詩人。『週刊少年ジャンプ』初代編集長。
[編集] 経歴
青山学院中等部から早稲田大学予科を経て早稲田大学政治経済学部に在学中、学徒動員で召集され、東京都内で敗戦を迎える。1950年に2年遅れで大学を卒業。1951年、小学館に入社。しかし子会社である集英社に回され、『おもしろブック』『こばと』『りぼん』などの編集長を歴任。
1958年、『週刊明星』創刊に伴い、同誌に副編集長格で参加。しかし編集長の本郷保雄の逆鱗に触れ、平社員に降格される。
一時は退社を覚悟したが、陶山巌(すやま・いわお)社長に引き止められて思いとどまり、『おもしろブック』の後身である『少年ブック』の編集長に返り咲いた。
1968年、『少年ジャンプ』創刊に伴い同誌初代編集長に就任。当初は週刊ではなく月2回刊だったが、売上が伸びたために週刊化が決定された。
長野は友情と努力と勝利を編集方針に据えて成功を収め、更に漫画家専属制度を考案して非難も浴びた。読者アンケートの結果によって連載の続行か打ち切りかを決定する方針を確立したのも彼である。一方では、反戦漫画の金字塔的作品『はだしのゲン』の連載をサポートしており、単なる売り上げ至上主義者ではない一面も持っていた(なお、同作品の連載は、長野が編集長を辞すと同時に中断され、他誌に移行している)。
集英社の臨時雇いスタッフによる組合活動に圧力をかけ遠崎史朗(後のアストロ球団原作者)を退職に追い込むなど、左翼活動には厳しい側面も伺わせるが、召集されていた戦時中は同級生が戦死するなどの体験もあり反戦の気持ちは非常に強かったようである。『おもしろブック』の編集長時代に安易な戦記ブームに疑問を持ち読者アンケートを行うなどの行動からもそれをうかがい知ることができる。「心情左翼行動右翼」とは彼を評した第三代少年ジャンプ編集長西村繁男の言葉である。
また、しばしば言及されるアンケート至上主義に関して、彼はアンケートの意味やその読みとり方の達人でもあった。後に「年齢別・クロスなどアンケートの読み方は長野に全て教わった」と西村繁男が述懐するように、単純な数の集計でなく雑誌における読者心情や傾向などをデータを元に非常に的確に判断していた点は昭和30年代という時期を考えると驚異的ですらある。このアンケートによる選別と編集プロパー集団の育成(ある意味治外法権的な職能集団であるジャンプ編集部)による強行軍的な雑誌編成方針は、その薫陶を受けた西村繁男そしてその直系の後継者である後藤広喜に引き継がれ約600万部という出版史上空前絶後の記録を生み出すに至るのである。
1974年に編集長の座を中野祐介に譲った後、専務に就任したが、1992年に辞任。若い頃から密かに書き続けていた詩の道に進む。1993年、思潮社から第一詩集「大伴家持」を刊行し、現代詩花椿賞を受賞。以後、1年に約1冊のペースで、日本書紀の新釈による長篇叙事詩を上梓。2000年刊行の「キリスト異聞」が最後の作品となった。
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