間部詮房
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 寛文6年5月16日(1666年6月18日) | |||
死没 | 享保5年7月16日(1720年8月19日) | |||
戒名 | 亨浄院殿柔誉軟心煥霊大居士 | |||
墓所 | 快楽山称名院浄念寺(新潟県村上市寺町) | |||
藩 | 上野国高崎藩主→越後国村上藩主 | |||
氏族 | 間部氏 | |||
父母 | 父:西田清貞、母:小川次郎右衛門の娘 | |||
兄弟 | 間部詮房、間部詮貞、間部詮言 | |||
妻 | 正室:小花和成武の娘 | |||
子 | 娘(内藤義稠婚約者)、間部詮言、 養女(間部詮貞娘、永井直英室) |
間部 詮房(まなべ あきふさ、寛文6年5月16日(1666年6月18日) - 享保5年7月16日(1720年8月19日)は、上野国高崎藩主。越後国村上藩の初代藩主。側用人。西田清貞の長男。
[編集] 生涯
間部宮内は、猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、1684年(貞享元年)に甲府藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍徳川家宣)の用人になり、綱豊西城入(1704年)と同時に甲府藩士から幕臣に編入され、従五位下越前守に叙任し、側衆になり、1500石加増。その後も累次加増され、1706年(宝永3年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。
詮房は江戸時代における幸運児の一人といえる。日本の歴史上において、身分制度をはずれた猿楽師が大名になった例は他にない。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上、老中の次席を命じられた。
詮房は、将軍家宣、儒学者新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や、将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をたくみにさばき、「正徳の治」を断行した。
しかしながら、詮房、白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情である。
前述のとおり、家継が幼少のまま病没し、譜代大名、大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任するや、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。しかしながら大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地高崎から、遠方の村上藩に左遷されたにとどまり、形式の上では、5万石の大名でありつづけた。
享保5年7月16日(1720年8月19日)、詮房は暑気あたりで村上の地に没した。後を養嗣子(実の弟)の間部詮言が継いだ。
[編集] 官職位階履歴
※日付は旧暦
- 1684年(貞享元)、甲斐国府中藩(藩主徳川綱豊)小姓
- 1687年(貞享4)、同藩両番頭格
- 1688年(元禄元)、同藩奏者役格
- 1689年(元禄2)、同藩用人並
- 1699年(元禄12)、同藩用人
- 1704年(宝永元)12月9日、従五位下越前守。幕府書院番頭格西丸(将軍後継者徳川家宣)奥番頭
- 1705年(宝永2)1月7日、西丸側衆
- 1706年(宝永3)1月9日、序列が若年寄の次座。相模国内1万石領主。12月15日、序列が老中の次座。従四位下に昇叙。
- 1709年(宝永6)4月15日、側用人。侍従兼任。4月16日、老中格。
- 1710年(宝永7)5月23日、上野国高崎藩5万石藩主として転封。
- 1716年(享保元)5月16日、側用人御役御免、雁間詰となる。
- 1717年(享保2)、越後国村上5万石に転封。
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