間部詮言
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元禄3年5月2日(1690年6月8日) | |||
死没 | 享保9年8月18日(1724年10月4日) | |||
諡号 | 瑞昌院 | |||
墓所 | 九品寺(東京都台東区花川戸) | |||
官位 | 従五位下、下総守 | |||
藩 | 越後村上藩主→越前鯖江藩主 | |||
父母 | 父:西田清貞(詮言は五男) 母:小河氏(光寿院) 養父:間部詮房 |
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兄弟 | 詮房、詮言 | |||
妻 | 宝蓮院(阿部正喬の娘) | |||
子 | 間部詮方、娘(間部詮方室) |
間部 詮言(まなべ あきとき)は、越後村上藩の第2代藩主であり、のち越前鯖江藩の初代藩主。
[編集] 生涯
宝永5年(1708年)4月、間部家の養嗣子(兄・詮房)となり、享保5年(1720年)の兄の死去により村上藩主として家督を継ぐが、間もなく越後村上から越前鯖江に移封された。これは徳川家宣や徳川家継の時代に権勢を振るっていた間部氏を城主大名から陣屋大名へ降格させた上、実質的な収入も減らせるといういわゆる左遷であった。
このため、詮言は鯖江の地において一から藩政の確立に取り組まねばならなくなった。家臣団の編成、町の建設などである。このような中で失意のうちに35歳の若さで江戸芝の三田邸にて死去したという。男児が一人いたが、早世していたため、甥の間部詮方を養嗣子として後を継がせた。
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