関長広
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関 長広(せき ながひろ、1694年8月19日(元禄7年6月29日)-1732年5月27日(享保17年5月4日))は、備中国新見藩の第2代藩主。父は初代藩主・関長治の兄・森長俊(長広は次男)。母は岡氏。子に政富、娘(森俊春室)。官位は従五位下、但馬守。
元禄7年(1694年)6月29日、美作国に生まれる。幼名は熊次郎。宝永3年(1706年)4月、長治の養嗣子となる。享保10年(1725年)3月5日、長治の隠居により家督を継いだ。しかし生来から病弱で政務が執れず、このような惰弱な君主のもとで家臣団は博打に走るなど綱紀が乱れ、財政難も起こった。そのうえ享保17年(1732年)5月4日、養父に先立って39歳で死去し、後を子の関政富が継いだ。法号は良徳院恭岳浄謙大居士。
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