関政富
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関 政富(せき まさとみ、1723年4月26日(享保8年3月22日)?-1760年7月16日(宝暦10年6月4日))は、備中国新見藩の第3代藩主。正室は松平親純の娘。子に政辰、長誠、富矩、娘(毛利就馴室)。官位は従五位下、播磨守。
父は第2代藩主・関長広とも初代藩主・関長治とも言われており、定かではない。また生年も享保8年(1723年)3月22日といわれているが、享保3年(1718年)生まれとも言われており、これも定かではない。享保17年(1732年)、父の死去により家督を継いで藩主となる。父は病弱の上暗愚という性質のために藩政を混乱させたが、この政富は英邁で、自ら藩政を執った。そして藩校・思誠館を創設して庶民にも文武を奨励し、あるいは学資を補助するほどであった。また刑罰制度の整備を行なうなど、この治世期に新見藩は小藩ながら有能な人材を多く輩出し、全盛期を迎えた。政富自身も文化的に優れた人物であった。宝暦10年(1760年)6月4日、38歳で死去し、後を子の関政辰が継いだ。法号は建徳院鳳山元輝大居士。
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