阿南惟幾
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阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人、終戦時の陸軍大臣。大分県竹田市出身。終戦時の鈴木貫太郎総理大臣とは、2・26事件当時、侍従長と侍従武官の関係だった。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り、最終的には終戦に同意。軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃。介錯を拒み、翌15日朝絶命。「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書は有名。
長男早世、次男惟晟(陸軍少尉、昭和18年戦死)、三男惟敬(元防衛大学校教授)、四男惟正(元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)、五男惟道(野間家へ養子、元講談社社長)、六男惟茂(元駐中国大使)。
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[編集] 阿南の終戦への思いをめぐる諸説
戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南は、昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで当然のごとく戦争継続を主張し続けたが、戦後、当時の阿南の真意をめぐっては、
- 昭和天皇の忠臣であった阿南は、終戦を望む天皇の本音を悟っており、極秘裏に鈴木貫太郎首相と綿密に協力して終戦計画を遂行。ただし表向きは、天皇が最も恐れた「終戦に反発する陸軍の暴発」を阻止するため、「腹芸」を打って戦争継続を主張し続けたとする説(いわゆる腹芸説)
- 軍の最高指導者の一人として、たとえ国が焦土になろうとも敵軍に一矢報いるまでは引くことなどできぬ・・・と本気で思っていたとする説(あの状況で腹芸など打つ訳がないとする説)
など諸説が流れており、終戦史研究の分野においても意見の分かれるところである。例えば、憲兵隊本部に国民総綱紀粛正のスローガンを掲げさせておきながら、その憲兵がスパイ工作によって摘発してきた和平派の吉田茂の釈放に尽力している。臨終の際「米内(終戦を支持していた米内光政海軍大臣のこと)を斬れ。」と口走っていることなど、その真意とするところをめぐり議論がある。
いずれであったにせよ、終戦時の陸軍最高責任者としての責任を自らの腹を切る事で果たした人物であり、その最期により陸軍の暴発という事態を防ぎ、国内の混迷を最小限に抑える効果をもたらした行為は応分の評価に値する。
大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし(辞世)
[編集] 参考文献
- 角田房子 『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』 ISBN 4101308012
- 同名書 (ISBN 4103258039) の文庫化
- 沖修二 『阿南惟幾伝』 ISBN 406207477X
- 1970年刊同名書の再刊
- 甲斐克彦 『武人(もののふ)の大義―最後の陸軍大臣 阿南惟幾の自決』 ISBN 4769808615
- 阿部牧郎 『大義に死す―最後の武士・阿南惟幾』 ISBN 4396632401
- 半藤一利 『「昭和」を振り回した6人の男たち』 ISBN 4094057617
- 『「昭和」を振り回した男たち』(ISBN 449206088X) の改題文庫化
- 大宅壮一(大宅は名義のみ、実際の著者は半藤一利) 『日本のいちばん長い日―運命の八月十五日』 ISBN 4041350018
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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