陳守度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陳守度(ちんしゅど、チャン・トゥ・ド、Trần Thủ Độ 1193年-1264年)は、ベトナムを支配した陳朝の実質的な創始者。統国太師と追尊された。
李朝の第八代皇帝・恵宗に一族の娘を娶わせ、自身は外戚として大いに権力を振るった。1224年には恵宗を廃しその七歳の次女である李昭皇を即位させて李朝を完全に乗っ取り、翌年には恵宗を自殺に追い込んだ上で、自分の甥に当たる太宗を李昭皇と結婚させて、皇位を陳氏のものとしたのである。ちなみにこのとき、李昭皇とその姉以外の李氏一族は、陳守度によって全員殺害されている。
こうして陳朝を開いた陳守度であるが、太師として実権を握ったものの、世人から非難を受けることを恐れ、自ら皇位に就くすることはなかった。また、対立する太宗の実兄陳柳を失脚させてその息子である陳興道の恨みを買ったと言われている。
陳守度が李朝を簒奪したこと、またその後恵宗の后をめとったことなどの振る舞いに対して、後世の史家は厳しい批判を加えているが、一方で元の勃興を前にして国政の安定をもたらした点を評価する見方もある。