ノート:陸奥国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いろいろ意見と指摘をさせていただきます。
「松島丘陵以南」や「仙南平野のみ」は間違いです。昔はそのように考えられていましたが、現在ではかなり古い時期から境界が固定していたとみなされています。724年頃の城柵造営は、領土拡大のためではなく、守りを固めるためのものだということです。
陸奥国分割の理由は、史料にないことですので、誰かの推測・想像説だと思います。時代が違う越の分割と比較していること、出羽が陸奥・越後の両国から支援される体勢だったことが考慮されていないこと、海路では分割できるが陸路では分割できないというのは理由が不明なことなど、内容的に疑問な点があります。従って、まったくの間違いとは言いませんが、百科事典に載せるには足りない説だと思います。
国府の移動がなかったというのは、誤りです。多賀城の国府が10世紀に廃絶したことは、発掘調査で確かめられています。にもかかわらず文献で多賀国府が出てくるのですから、移転したのは確実です。多賀というのですから昔の宮城郡の北東部と推測されますが、それ以上の決定的証拠がないのが現状です。
むつ市と奥州市についてですが、少なくとも奥州市は、地理的にまんなかだから奥州市なのだとは説明していません(ノート:奥州市)。陸奥国の街道は下北半島ではなく津軽半島方面にいくのが主要道ですから、むつ市についての説明も当を得ているとは言えません。むつ市がそう説明しているのなら、むつ市の項目でそう書けばよいことです。陸奥国の中で、弘前や十三湊が脇道だと暗に示唆するようなことを書く必要はないと思います。どちらも名前をとっただけなのですから、関連項目に記せば足りるのではないでしょうか。
「長町利府断層があるので水利がよい」というのはどこから取ったのでしょうか。私は聞いたことがありませんが、あるいは不勉強のためかもしれません。参考にした文献があれば教えてください。Kinori 2006年6月22日 (木) 03:19 (UTC)
- Kinoriさん、ご指摘ありがとうございます。私が書いた部分とそうではない部分がありますが、一応お答えします。
- 境界についてですが、これは歴史学で定説があるのか良く分からないので、既に記載されているものに従って編集しました。ただ、軍事的に見れば、軍事拠点(暴力装置)が築かれている場所は、征服者側は征服したと見なす一方、被征服者側は征服されていないと思っている状態であるため、不安定な征服地であることを示しています。陸奥・出羽・越後は、そのような状態であった時期があり、何を以って畿内政権の領土となったかを決めるのは難しいと思います。私見では、基本的に安定的徴税システムがないと領土と規定出来ないと思います(←現在のイラクや日本には米軍が駐留しているが、アメリカの領土ではない。中国の清にも欧米列強の勢力範囲があったが、清の領土であった。等等、類例多数)。一応、私は、歴史学(政治史)というよりも軍事史に焦点を当てて陸奥国の記事の「沿革」の項目を編集しました(「歴史」の項目は別に存在していた)。現在の記事では、それらが「歴史」の項目に統一されています。
- 現在の記事では、「陸奥国分割の理由」は記載されていません。再統一については軍事的な理由が書かれています。経済的には、人口も農産物収量も少ない陸奥国を分割すると、国府の経済基盤が薄くなり、充分な軍事費が得られなったから統一したのに対し、越後国は紛争地ではなく、広大な農業適地と人口があったから越国から分離できたと思います。また、この時期の海路による軍事行動の場合、戦費は中央政権の持ち出し(中央からの派遣部隊)なのに対し、陸路は基本的に紛争当該国府の戦費持ち出しになるので戦力が異なります。政治史として問題があるのなら、自由に編集して下さい。
- 国府の移動についてはKinoriさんの言う通りだと思います。
- むつ市と奥州市についてですが、現在の文章は、論理記号で表すと、「むつ市⇒本州最北端辺りにある⇒陸奥の意味を踏襲」「奥州市⇒旧陸奥国のど真ん中にある」となっており、必要条件で書かれています。十分条件が正しいことは記事内には書かれていません。Kinoriさんの指摘は、論理が逆向き(十分条件)となっており、書かれていないことについての議論となっているので理解出来ません。当然ながら、「必要十分条件が正しい時のみ論理が成り立つ」などということはあり得ないので、Kinoriさんの指摘は的外れだと思います。
- 活断層周辺は、地層の不連続性によって地下水が帯水層から他の層に入り込み、水利が良くなる場合が多いです。仙台平野の場合は、長町利府断層よりも海側が沖積平野であるため、主に断層の東側の水利が良いです。卸町・扇町・六丁の目の流通・工業地区も、豊富な地下水の利用を考えて開発された土地です。ただし、地下水が多いため、宮城県沖地震の際に、この断層東側に液状化が起きることが知られています。また、地下水の汲み上げ過ぎで、断層東側は地盤沈下が起きています。インターネット上で仙台平野の地下水について書かれたものを拾ってみました→[1][2][3][4][5][6] もね~るmoner 2006年6月24日 (土) 06:47 (UTC)
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- 「定説があるのか良く分からないので、既に記載されているものに従って編集しました」とはどういうことですか。歴史の本を読んでまとめたものではない、ということですか。ウィキペディアのこの記事を読んだもね~るmonerさんが、自分で理由を考えたということですか。Kinori 2006年6月24日 (土) 10:42 (UTC)
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- 言葉が足りなかったかも知れません。すみません。私は、歴史・地理・軍事・政治・経済の本を参考に書いています。『「松島丘陵以南」や「仙南平野のみ」は間違いです。』『昔はそのように考えられていました』というKinoriさんの指摘を受け、私が文献を調べて得た知識は「もう説として古くて事実とは違う」と言われたと思いました。しかし、Kinoriさんのいう「新しい説」が本当に定説であるのか調べる術がなく、「定説があるのか良く分からない」と書きました。「既に記載されているもの」とは、Kinoriさんの言う「古い説」のことです。混乱させてしまいすみませんでした。もね~るmoner 2006年6月24日 (土) 16:03 (UTC)
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- たくさんの本を参考にした上で定説かどうか疑っているのですね。それは失礼しました。ではその中から二、三冊あげてもらえませんか。私のほうでは、工藤雅樹『日本の古代遺跡15宮城』と『古代蝦夷』、熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』(日本史リブレット)、中路正恒『古代東北と王権』(講談社現代新書)をあげましょう。Kinori 2006年6月25日 (日) 01:25 (UTC)
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- お返事ありませんが、どうしたのでしょうか。ページ数まで書けとは言っていません。たくさんの本を参考にしたのでしたら、その中から二、三あげることは難しくないと思います。もね~るmonerさんが自分で考えたことではないか、と私が尋ねたのは、まっとうな歴史の本を参考にしたのであれば、「軍事的にみれば」以下のような解説は出てこないと思ったからです。どんな本か確かめたいと思いますので、どうか書名をあげてください。Kinori 2006年6月28日 (水) 08:23 (UTC)
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- お返事いただけませんでしたので、書き直しました。境界についてはイラク戦争から論じるのではなく、城柵の位置を調べることをおすすめします。7世紀後半にこれらがかなり北にせりだしているということです。分割と統合の理由については、やはりもね~るmonerさんの意見では足りないので、相応の資料的根拠を提示してください。統合についてはそもそも史料がないのですが、理由についてだけ何かあるのでしょうかね。市については、陸奥国の記事は陸奥国を説明するところであり、陸奥国の関連項目を説明するところではないとお答えします。活断層については、たくさんのサイトを紹介していただきましたが、今ここで話している時代と関係するものがありません。工業団地や液状化のお話が出てくるあたり、これもまたもね~るmonerさん独自の考察なのではないかと思われます。
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- 私が思いますに、古代史についてはよほど偉い先生でも根拠薄弱な推測を書かずにはすまない事情があります。しかしそれをウィキペディアのために要約するにあたっては、根拠が固いものはそのように書き、弱いものは推測として書くと区別しなければなりません。時には省くことも必要となります。偉い先生のものでもそうなのですから、我々の考察など論外です。誤りは誰しもありますから、筆がすべることはあるでしょう。が、気付いた時点で改め、抑えることで良い記事を作ることができるのだと思います。Kinori 2006年7月11日 (火) 17:58 (UTC)
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安倍氏の支配領域ですが、根本資料の「陸奥話記」の内容によれば下北から仙台平野にいたる広大な地域です。市販されている陸奥話記は確かに奥六郡の描写から始まりますが、高橋崇によってもっとも古い写本には奥六郡の描写が一切ないことが明らかになっています。奥六郡でもって安倍氏を説明するのは古代俘囚勢力の過小評価につながるので止めたほうが良いと思います。