震天制空隊
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震天制空隊(しんてんせいくうたい)とは第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍の特別攻撃隊の1つ。単に「震天隊」ともいう。
[編集] 概要
太平洋戦争後半から始まったアメリカ陸軍B-29による本土爆撃に対抗する手段として、航空機(主に戦闘機)で、B-29へ体当たりしてこれを撃墜する(空対空特攻)ために昭和19年11月7日、師団命令が出され編成された。なお、「震天制空隊」の名称は特に、関東方面を指揮する東部軍管区、第10飛行師団に所属する各空対空特攻隊を指し、昭和19年12月5日、東久邇宮稔彦王陸軍大将によって命名された。他師団では「回天隊」(西部軍管区第12飛行師団)等と飛行師団ごとに別名で呼称された。
空対艦特攻(いわゆる海軍の神風特別攻撃隊や陸軍の振武特別攻撃隊)との決定的な違いは、敵機に突入後、操縦者が機体より脱出して生還することが必ずしも不可能ではなかったため十死零生ではないことである。中には、飛行第244戦隊震天制空隊「はがくれ隊」所属の板垣政雄軍曹・中野松美軍曹のように2度の体当たりを敢行し2度とも生還したという例もあった。
編成は各飛行戦隊内の4機1組で1隊とし、使用する機体の大半は使い古しの中古機で、軽量化のため武装・装甲・無線装置を撤去し(軽量化以外にも、喪失前提の機体に武装や無線を搭載して道連れにする必要はないという意味もある)高空での機体性能を少しでも向上させた「無抵抗機」と呼ばれる機体が用いられた。また、これらの機体には特攻機を表す各種のマーキングや特別塗装が施されていた場合が多く、通常の機体と比較してジュラルミンの胴体に剥がれかけた迷彩塗装と相まってかなり派手なものが多かった。
[編集] 戦果
戦果としては、1機の特攻機で1度に2機のB-29を撃墜(1機目のB-29の破片が別のB-29に直撃し巻添え的に墜落)したこともあったが、大半はB-29の防御火器が強固なものである上、速度や高空での性能差がありすぎてB-29に接近することすらままならない場合も多く、体当たりに成功してもB-29が墜落しない(特攻機側はほとんどが墜落または空中分解するが、1回の任務中に2回の体当たりを受けても墜落せず基地に帰還したB-29もあった。しかし帰還直後に機体が真っ二つに折れたといわれる)場合もあり、軍上層部が期待したほどの戦果は挙げられなかった。
また、B-29にP-51やP-47といった護衛戦闘機が随伴してくるようになると武装を持たない無抵抗機は格好の餌食となってしまうため、次第にこれらの攻撃は行われなくなっていった。