青岳尼
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青岳尼(しょうがくに、生没年不詳)は、小弓公方足利義明の娘(長女とされている)で安房国の戦国大名・里見義弘の正室。弟に足利頼淳がいる。実名不詳。元は鎌倉尼五山筆頭太平寺の住持であった。
第1次国府台合戦で父が戦死した直後、安房に移って里見義堯(義弘の父)の保護を受ける。恐らく、義弘とはその頃からの所謂「幼馴染」であったと考えられている。正確な時期は不明だが義明の死から13年経った天文20年(1551年)頃には既に太平寺住持としての記録が見られる。
弘治2年(1556年)、北条氏康支配下の鎌倉を攻撃した義弘は彼女に恋焦がれる余り、太平寺にいた青岳尼を訪れて還俗して自分の妻になるように勧める。彼女もこれに応じて江戸湾を渡り、義弘の居城のあった上総国佐貫城に入って間もなくその正室となった。
だが、その後についての詳細は不明である。伝承によれば病弱であり永禄年間の早い段階に病死したとされている。一方、彼女が建立したと伝えられている興禅寺(千葉県南房総市(旧富浦町))にある彼女の供養塔には天正4年(1576年)と明記されている事からこの年に没したとする説もある。だが、天正4年段階において義弘は小弓公方家とは敵対関係にある古河公方足利晴氏の娘を娶っており、既に嫡男・梅王丸が誕生していたと考えられている。このため彼女の最後については伝承通りの夭折説、義弘に離別させられた説、晴氏の娘は当初は側室であり青岳尼が亡くなった天正4年以後に正室とされた説などが言われているが、いずれも確実な根拠を有していない。
法号は智光院殿洪嶽梵長大姉。
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