音丸
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音丸(おとまる、1906年年(明治39年)12月8日 - 1976年(昭和51年)1月18日)は、大正期、昭和時代に活躍した歌手。
[編集] 経歴
明治39(1906)年12月8日東京麻布箪笥町の老舗の履物屋の一人娘として生まれる。本名永井満津子。常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。17歳のときには春日派の小唄を始めている。しかし、25歳のときに大変可愛がっていた弟が亡くなり重いノイローゼになる。その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていていつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。そこでその民謡の会に出席して披露した彼女の持つ勘の良さと美声は菊池淡水の絶賛するところとなり、リーガルレコードに推薦され本名で「草津湯もみ唄」を吹き込んだ。そのレコードを聴いた古賀政男は当時重役をしていたテイチクに誘い「泪の京人形」を吹き込ませた。
ちょうどその頃小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していたが芸者歌手は地方巡業に際して時間拘束として莫大な花代がかかることから苦肉の策として芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない直前琵琶をたしなむ女性をさがしていたところ下駄屋のお内儀である彼女に白羽の矢が立ったのだ。その後昭和9(1934)年9月から正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューした。ただし芸名を音丸としたのは同年に吹き込んだ「君は満洲」からである。音丸の芸名の由来は「音は丸いレコードから」という洒落にちなんで名付けられた。
コロムビアでは当初家庭の主婦からレコード界入りしたことを隠していたが音丸本人がファンに「下駄屋の姉御!」と声をかけられても「よくご存知」と返すなど腹の据わったところを見せたという。翌昭和10(1935)年には「船頭可愛や」が大ヒットした。この曲は沖縄民謡の普久原恒勇が「日本最高の歌謡曲」と絶賛している。続いて昭和11(1936)年には「下田夜曲」、「博多夜船」が大ヒットし小唄勝太郎や市丸などの芸者歌手を向こうにまわしての人気を獲得する。次第に出演依頼やレコードの吹き込み、ラジオ・映画の出演に多忙となり生活も派手となり家業の下駄屋は人手に委ね下駄屋の養子となっていた夫とも協議離婚し音丸は歌一筋の道を歩み始める。その後弁士の井口静波と再婚し二人は二枚看板で全国を慰問、興業に歩いた。 戦後も全国巡業が続き昭和22(1947)年には高知で当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。
昭和23(1948)年にはキングレコードに移籍、同年に人吉を訪れた際に「五木の子守唄」を見つけ出し初めて同曲をレコーディングする。後に人吉市長から感謝状を受けている。しかしヒットは出せずその後コロムビアに復籍した。コロムビアに戻った音丸はその後懐メロブームに乗って東京12チャンネルのなつかしの歌声に番組出演をしたり昭和47(1972)年にはステレオ録音で往年のヒット曲を吹き込みオールドファンを喜ばせた。
晩年には視力が衰えて昭和51(1976)年1月18日午後12時30分に世田谷区世田谷のマンションで急性心不全により死去した。享年70歳だった。現在京浜急行の青物横丁の近く天妙国寺に音丸の墓があり、その横に舟の帆をかたどった碑があり「船頭可愛や」の一番の歌詞が音丸の直筆によって彫られているが、これは音丸が生前に建てられた碑だという。
[編集] 代表曲
- 船頭可愛いや
- 花嫁行進曲
- 満洲想えば
- 下田夜曲
- 大島くずし
- 博多夜船
- 満洲吹雪
- 米山三里
- 皇国の母