飯塚染子
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飯塚染子(いいづか そめこ、寛文5年(1665年) - 宝永2年(1705年))は、江戸時代前期の幕府側用人、譜代大名柳沢吉保の側室。飯塚正次の娘。あるいは正親町実久の娘。またの名を、染子の方、佐米の方、おさめの方。
染子は柳沢吉保の家臣の娘として側室に迎えられ、吉里・長暢・安基らをもうけ、宝永2年(1705年)に41歳でこの世を去った。
吉保が江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣であったことから、吉保は染子を綱吉に献上することによってその地位を得たのだとする説がある。 それによれば、ある日、吉保は自邸に吉原の遊女屋を再現するといって綱吉の御成りを仰いだ。そのとき、綱吉が吉保の側室である染子を気に入り、それ依頼、綱吉は染子に会うため柳沢邸に頻繁に通うようになった。綱吉は柳沢邸に五十八回も通ったという。 これとは逆に、染子は綱吉の御手付きであり、吉保に下げ渡されたともいわれている。
こうしたことから、吉里の出自について、実は綱吉公の後落胤だったのではないかといわれているが、実際にはその確たる証拠はない。 同様に、綱吉が次期将軍候補に吉里をと考えていたが、幕臣や大奥の反対にあって断念したという逸話は、今日では信憑性のないものとされている。 また、実父は公家の正親町実久ともいわれているが、これは吉保の側室・正親町町子との混同によるものと思われる。
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