柳沢吉保
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柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、万治元年12月8日(1658年12月31日) - 正徳4年11月2日(1714年12月8日))は、江戸時代前期の幕府側用人、譜代大名。はじめは小身の小姓であったが、第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。官位は従四位下・左近衛権少将・出羽守(でわのかみ)、後に美濃守(みののかみ)。
家系は清和源氏の流れを引く。河内源氏の支流 甲斐源氏 武田氏の一門にて、武田氏武川衆に属した家柄。武田氏滅亡後、武田旧臣の多くが、徳川家康の家臣に登用され、柳沢氏も徳川氏の家臣となった。
[編集] 経歴・業績
上野国館林藩士・柳沢安忠の末子として生まれる。母は安忠の側室・佐瀬氏。通称は十三郎、のち弥太郎。名も房安、佳忠、信本と頻繁に改名。館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕える。延宝3年(1675年)家督相続。相続を機に保明と改名。
延宝8年(1680年)4代将軍徳川家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられる。綱吉の寵愛により頻繁に加増され、貞享2年(1685年)には従五位下出羽守に叙任。元禄元年(1688年)将軍親政のために新設された側用人に就任。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。2年後にも2万石加増。元禄3年(1690年)従四位下に昇叙。元禄7年(1694年)1月には7万2000石とされ、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)主となる。同年12月には老中格。並びに侍従の官職を与えられた。同11年(1698年)、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する。同14年(1701年)、将軍綱吉の諱の一字を与えられ、吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任し、松平の姓を許された。宝永元年(1704年)、綱吉の後継に甲府藩主徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(山梨県甲府市)15万石の藩主となる。甲府藩はそれまで徳川一門にしか与えられない所領であったから、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど激しく寵愛していたことがうかがえる。さらに側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から朝廷にも影響力を持ち、元禄15年(1702年)に将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白近衛基煕など朝廷重臣達へ根回しをしておいたおかげであった。宝永2年(1705年)、家門に列する。宝永3年(1706年)には大老格に上り詰めた。
しかし宝永6年(1709年)2月19日、権勢の後ろ盾とも言うべき徳川綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。かわって新将軍徳川家宣とその儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。こうした状況を敏感に察知して、6月3日、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。結果、その後吉里の領地は甲府藩から大和国郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。
一方他の綱吉近臣の松平輝貞や荻原重秀らは、なおも地位に残ろうとしたがために新井白石らと対立して免職の上減封の憂き目にあっていることと比較すると見事な身の処し方だった。
隠居後は江戸駒込(東京都文京区)で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園(りくぎえん)の造営などを行った。正徳4年(1714年)に没、享年56。
正室は親族の曽雌定盛の女(柳沢定子)。側室は飯塚氏の女(柳沢染子)、公家正親町氏の娘(正親町町子)。染子との間に長子の柳沢吉里が生まれている。
長男吉里が大和国郡山藩(15万石)、四男の経隆が越後国黒川藩(1万石)、五男の時睦が越後国三日市藩(1万石)の藩主となり、三藩とも明治維新まで存続した。六男の忠仰は米倉昌照の養子となって皆川藩主(後に六浦藩主)。七男の保経は兄・時睦の養子となる。娘に内藤政森の正室と、松平輝貞の養女(後に松平資訓の継室)がいる。
[編集] エピソード
側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり、綱吉から吉保に下された拝領妻であった。一説に吉里は綱吉の隠し子であるとも言われる。また、一説に吉保は甲府に百万石の領地を綱吉から賜らんと企てて、吉保の側室になってからも綱吉の寝所に召されることの多かった染子を通じてこれを願い出た。綱吉はこれを快諾するも、まもなく綱吉は病死し、このことは沙汰止みとなった。しかし、このようなことがまた起こることを憂慮した幕閣は、これ以降、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、将軍の寝所に泊まらせ、彼女等に寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを尽く報告させることとした。この事は、江戸幕府が滅亡するまで続けられた。
元禄14年(1701年)の浅野長矩の刃傷事件に対する幕府の裁断には吉保の意向が関係していた事実が指摘されており、元禄赤穂事件を題材とした忠臣蔵ドラマなどでは事件の黒幕・悪役として描かれる事が多い。しかし川越藩主時代には三富新田の開発(現在でも所沢市・三芳町あたりにその当時の区画が残っている)などを行い、行政面での業績は評価されている。また、側用人としてつかえた徳川綱吉の死去に伴い、権力の座にしがみつくことなく潔く引退したことなども、悪役説とはあまり整合性がない。
なお柳沢吉保は綱吉の文治政治に恭順するために儒者を多く召し抱え、儒学の発展に少なからぬ役割を果たした。有名な者には新井白石のライバル的存在として知られる荻生徂徠、また忠臣蔵事件を裏から支援していたことで知られる細井広沢がいる。細井広沢はのちに綱吉側用人の松平輝貞の不興を買い、輝貞から柳沢家へ執拗に細井を放逐せよという圧力があったため、やむなく放逐されたが、その後も吉保は浪人した広沢に年間50両もの支援金を送って親交を持ち続けたという。
- 肖像画
山梨県甲府市の一蓮寺に所蔵
- 法名・墓所
[編集] 関連
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