飯盒
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飯盒(はんごう)は、屋外で使用する携帯用炊飯器具である。飯盒の盒の字は合わせ蓋のついた容器を意味する。
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[編集] 概要
飯盒はアルミ製の器で深底にできている。現在「兵式」飯盒と呼ばれているものは1932年まで日本陸軍制式であったタイプで、形は円筒型ではなく上から見ると大豆か小豆の様なゆがんで扁平な形をしている。これは食品の入った多数の飯盒を弦に棒を通して運ぶ時にぶつかり合わずに都合が良いからといわれる。また、腰から下げて携行する際に体にフィットさせるためともいう。本体のほかに外蓋と中蓋があり、それぞれ食器として使用される。
旧軍標準では一食は米2合であるが、掛子(かけご)と呼ばれた中蓋は、すり切り一杯で2合の容量があり、外蓋一杯の水でちょうど2合の飯が炊けるようになっている(外蓋すり切り一杯で3合の米を測ることもできる)。胴体には2合と4合の米を炊く時の水の量を示す刻みが入っており、一回に4合の飯を炊くことができた。また携行用・調理時の吊り下げ用にワイヤー製の取っ手(弦)が取りつけられている。
[編集] 野外炊爨の方法
飯盒を使った野外炊爨(すいさん)の方法を述べる。
研いだ米と水を入れて中蓋は入れずに蓋をする。一度に2個以上を火にかける際は地面に浅い溝を掘って燃料を置き、Y字型の木の枝を両端に突き刺して立て、複数の飯盒の弦に棒(通常は木の枝、しかし一度に多数の飯盒を掛ける場合は鉄棒)を通してY字の支えに掛ける。しかし一個だけで炊く場合は2mほどの針金を用意し、だいたい同じ長さの真っ直ぐな木の枝の一端に近いところを3本一緒に針金でくくって他端を三脚の様に開いて地面に立て、針金の残りを下に垂らしてそれに飯盒の弦を通して吊るし、残りを括った針金の付近に巻き付けて止めるのが便利である。三脚を広げたり狭めたり、あるいは一本か二本の脚をずらしたりして飯盒の高さや位置を自由に調節することができる。
蓋に木の枝や棒等を当てて振動が無くなった時をもって炊きあがりとする。飯盒を上下逆さまにして数分間蒸した後に食べる。別に逆さまにしないでも出来上がりに大した違いはないが、そうした方が内側に出来た焦げが蒸されるので後で落としやすいともいう。逆さまにしているときに草などで底面の汚れを拭き取っておくと後で洗う際に楽になる。人により、蒸気が逃げにくいよう蓋の上に重石をすることがある。高地で炊く場合は気圧の関係で沸点が下がり、低地で炊く場合よりも温度が上がらず、上手く炊けないことがあるので石を乗せて圧力を上げる。
湯を沸かしたり、スープなどの料理を作ることも可能である。「スイス式」と呼ばれる飯盒には外蓋に折り畳み式で鋼製のハンドルが付いており、フライパンとして使える。兵式は弦で火にかける時水平になるがスイス式はハンドルの重みで全体が傾くのでその点焚き火利用には使い勝手が良くない。飯盒独特の形は薪で炊くには火が中の米などに均等に回りやすくまた熱効率もいいが、石油コンロなどで炊くには具合が悪い。
野外炊爨は、飯盒炊爨ともいわれる。戦後、小・中学校の林間学校では必須科目だった。おかずはカレーと相場が決まっていたものである。しばしば飯盒炊爨は飯盒炊飯と誤用される。
[編集] 歴史
今ある飯盒のルーツはヨーロッパで生まれたものと思われる。例えばドイツでは19世紀末から現在のスイス式と同様なものが使われていた。
現在の飯盒は、明治維新の後徳川慶喜が自宅にて飯盒にて米を炊き楽しんだという逸話があることから、洋式軍隊と共に日本に入って来たと判断できる。また、1931年制定のドイツの軍装に現在と同一のデザインのものを発見できる(ただし蓋をフライパンとして使うためのハンドル付きである)。他には、西部戦線異状なしで主人公たちが軍隊内で食事を受け取る際に使用されているので第一次世界大戦頃から使用されていたのではないかと推測できる。もともとは、スープを入れる火にかけられる容器であり、個人用のフライパンであった。今日では民生用では主にキャンプ・登山などで使用される。
陸軍で最初に使用された飯盒は細長い弁当箱のような単純な箱型であったが、洋式のデザインとなり、米を炊くように工夫アレンジが加えられ日本に定着した。これがいわゆる上から見ると大豆のようなゆるく屈曲した長円形のものである。
陸軍が飯盒を採用したのは日清戦争の頃とされる。ただしこの当時の飯盒は漆塗り(うるしぬり)やホーローなど直接火にかけられない素材で作られていたため食器としての機能しか無く、今日あるような飯盒が採用されるのは明治31年のことだった。陸軍の火砲製造所が製造したという。それ以前には野戦炊爨(やせんすいさん)は行われておらず、兵士は戦国時代さながらに糒(ほしいい)や焼き味噌を携行した。
平時における陸軍では、兵士は兵営で集団生活を行っており、炊事場で調理された食事を食堂に集まって食べた。食事内容もご飯に味噌汁とお漬物といった、普通の家庭と何ら変わらないものであった。戦場での野戦給食は、大隊単位で後方の野戦炊具で調理した食事を隷下の各部隊に配給するのが基本で、各兵士は配給された料理を飯盒を食器にして食事をとった。また携行食として握り飯等が配給されることもあった。
このような補給が受けられない場合は、現地部隊で米を炊いた。飯盒で米を炊く事を飯盒炊爨(はんごうすいさん)」と言う。飯盒炊爨には複数の兵士で行う組炊爨と兵士が各個に行う各個炊爨とがあった。組炊爨の場合、偶数名の兵士の飯盒をセットで用い、半分で炊飯を行い、残りの半分で味噌汁等を調理し、それぞれを分配して食べた。そして組炊爨が不可能な場合は各個炊爨が行われた。各個炊爨では、米を炊く際に中蓋へ味噌汁などを用意して飯盒に入れ、蓋をして火にかけて同時に調理する方法が取られた。
燃料は現地調達の木材等が使用されたが、秘匿された洞窟陣地など煙を嫌う場合は携帯燃料と呼ばれた缶入り固形燃料やろうそくなども用いられた。
昭和7年に採用された九二式飯盒は内盒と外盒の入れ子式になっており、両方を用いると一度に8合の米が炊け、また飯と味噌汁を同時に調理することもできるようになった。またそれまでの4合の飯盒では一日3食6合の調理に2回の炊爨が必要だったが、九二式飯盒では3食分の米が一度に炊爨可能になった。兵士が糧食を携行する場合、通常は布袋に入れて背嚢に入れるが、飯盒に生米を入れて携行する場合もあった。九二式飯盒は内盒と外盒を組み合わせて一度に4食分である8合の米を携行できた。太平洋戦争末期の昭和19年には生産工程簡略化のために、飯盒から中蓋が省略され、鋳物で作られるようになった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『歴史群像太平洋戦史シリーズ39 戦場の衣食住』学習研究社 2002年 ISBN: 4056029199