駿傑悠志
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駿傑 悠志(しゅんけつ ゆうじ、1976年7月13日 - )は、埼玉県三郷市出身で放駒部屋所属の現役大相撲力士。本名は石出祐二(いしで ゆうじ)。身長176cm、体重123kg。最高位は西前頭12枚目(2005年9月場所)。得意技は左四つ、寄り。趣味は読書。
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[編集] 来歴
1992年3月場所初土俵。軽量で出世が遅れたが、着実に番付を上げていった。一時は部屋から脱走を試みたが、若者頭の花ノ国に説得され事なきを得た。2000年11月場所に東幕下3枚目で7戦全勝優勝し、初土俵から約9年かかって翌2001年1月場所に十両に昇進した。肘の怪我や糖尿病に悩まされ、しばらく十両に定着出来なかったが、2004年11月場所、3度目の十両昇進。その場所に12勝3敗の好成績で十両優勝。翌場所も勝ち越しを続け、2005年三月場所には新十両からは約4年、初土俵からはなんと13年もかかってようやく念願の新入幕を果たした。
しかし、6勝9敗と負け越し、再び十両に陥落した。そして十両筆頭でむかえた翌五月場所、初日若兎馬に勝利したものの、5連敗などで3勝7敗となってしまったが、その後5連勝し、8勝7敗と勝ち越した。 そして、翌7月場所では序盤から好調で、9勝6敗と初の幕内での勝ち越しを果たした。しかし、自己最高位で迎えた翌9月場所は星が延びず、終盤粘ったものの、7勝8敗に終わった。四股名を2003年7月場所に駒光から本名の石出に戻したあとは入幕後もしばらくそれで取っていたが、2005年11月場所に駿傑と改名した。改名して初の場所、西前頭13枚目で迎えた2005年11月場所は序盤から絶不調で、初勝利は3日目の隆乃若戦で、11日目までは2勝9敗と十両陥落の危機だったが、12日目から4連勝し、辛うじて幕内残留を決めた。
しかし、東前頭15枚目で迎えた翌2006年1月場所も先場所と同じように序盤から絶不調で、先場所と同じく11日目を終えた時点で2勝9敗だったが、先場所のような終盤の巻き返しはなく、終始絶不調で4勝11敗という幕内に入ってからは自己最低の成績で大きく負け越してしまい、翌3月場所は十両に陥落。その場所も本来の力が出せず西十両5枚目で6勝9敗に終わり、翌5月場所も東十両9枚目で先場所と同じ成績に終わり、7月場所の番付は西十両13枚目と、いよいよ負け越せば成績次第で幕下陥落の危機に追い込まれたが、10勝5敗の好成績で危機を脱した。趣味は読書。既存部屋継承限定年寄名跡襲名資格者。
[編集] エピソード
- 2005年11月場所の13日目を最後に引退した元関脇琴ノ若(現佐渡ヶ嶽親方)の現役最後の対戦相手となった。しかし、駿傑は彼を立ち合いでいなし、わずか3秒3で送り出したため、琴ノ若は「そりゃあないよ。もう少し取りたかった」と落胆していたという。琴ノ若は幕内有数の人気力士であり、数々の怪我に悩まされながらも30代後半まで現役を全うし続けた。その現役最後の相撲であったため、あまりのあっけなさと姑息とも取れる手段に一部のファンが激怒し、大非難を浴びた。
- よく「差し身の良い駿傑」と紹介される。もろ差しを果たしての速攻が身上だが、上記のように変化に頼って墓穴を掘るケースも多い。
- 駒光の四股名と駿傑の四股名は両方とも知人が命名した(余談だが、以前同じ放駒部屋に駒光という力士が存在した)。
- 駿傑と改名するとき、当初は「俊傑」とする予定だったが、字のバランスなどを考え「駿傑」となった。
- 2007年3月場所7日目の取組で、立会いの際に待ったとなったが、それに気付かなかった対戦相手の白乃波が頭からぶちかまし、駿傑の鼻に当たり鼻から流血した。すでに制限時間一杯となっていたが、あまりにも流血が酷かったため、九重審判長の判断で鼻血が止まるまで仕切りを中断することになった。しかし、何度もタオルで拭っても流血は止まらず、最終的には鼻にティッシュペーパーを詰めて相撲を取ったが、白乃波の両手突きに遇い、応戦すら出来ずにあっけなく押し出されて敗れている。また、この際に駿傑の鼻骨がずれており心配されたが、13日目に勝ち越しを決め結局8勝7敗で場所を終えた。
[編集] 主な成績
(2007年3月場所現在)
- 通算成績:426勝379敗17休(91場所)
- 幕内成績:32勝43敗(5場所)
- 十両成績:132勝137敗16休(19場所)
[編集] 各段優勝
- 十両優勝:1回
- 幕下優勝:1回
[編集] 改名歴
- 石出 祐二(いしで ゆうじ)1992年3月場所-1998年3月場所
- 駒光 祐二(こまひかり-)1998年5月場所-2003年5月場所
- 石出 祐二(いしで-)2003年7月場所-2005年9月場所
- 駿傑 悠志(しゅんけつ-)2005年11月場所-