高野新笠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高野新笠(たかののにいがさ、生年不詳 - 延暦8年12月28日(790年1月21日))は桓武天皇生母。光仁天皇の大夫人。正式には高野朝臣新笠(たかののあそみにいがさ)という。
目次 |
[編集] 略伝
新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)の娘。母は土師宿禰(のち大枝朝臣)真妹である。天智天皇の孫にあたる白壁王(生没年709年~782年)の夫人となり、737年に山部王、その後早良王を生んだ。だが白壁王は744年に聖武天皇皇女・井上内親王を妃とし、770年に擁立されて62歳で光仁天皇(在位770年~781年)となった。皇后には井上内親王、皇太子にはその子、他戸親王が立てられたのは井上の出自の高さから見れば当然であった。
新笠の皇子たちに後継の目は無くなったかに見えたが、772年井上皇后は呪詛による大逆を図ったとして突如皇后を廃され、皇后が生んだ他戸親王も皇太子を廃された。井上も他戸も毒殺される。新笠自身が皇后になることはなかったが、新笠が生んだ山部親王が立太子し、桓武天皇(在位781年~806年)となる。さらに山部親王の同母弟である早良親王も立太子された。早良親王は784年藤原種継事件に連座して淡路へ流される途中絶食して自ら命を絶った。藤原百川の陰謀であった。
新笠は桓武天皇の即位後、皇太夫人と称せられ、789年に崩御すると790年皇太后、806年太皇太后を追贈された。新笠の墳墓は京都市西京区に高野新笠大枝陵(宮内庁管理)がある。
[編集] 新笠の出自
父の和乙継は百済系渡来人の子孫で、姓(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されているが明らかではない。白壁王の即位後、高野朝臣と改姓した。続日本紀延暦8年12月28日条に
- 「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。、、、、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」
とあって、和氏が武寧王から出た百済王族であることを明らかにしている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)百済太子淳陀死去とある。
淳陀太子の没年と高野新笠の推定生年(710年~720年)には200年以上の開きがあり、和氏が百済系渡来人といっても百済王氏のような今来(いまき)の帰化人ではなく、相当な古来である。和乙継の名前をみても相当日本化した帰化氏族だといえる。なお、天平宝字元年(757)に「大倭国」が「大和」に改められた際、「大倭宿禰」などの字(あざな)もすべて「大和」に改められており、もとは倭氏となのっていた可能性が極めて高い。和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬身古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。
また、「高野」の字(あざな)は、こんにちの奈良市高の原に比定される。神功陵古墳の裏手にあたる新興住宅地であるが、『万葉集』では鹿の音もわびしい山野と詠まれ、当時、孝謙称徳天皇の陵がおかれたばかりであって、本貫地・居住地としての実体はまったくない。近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠があり、菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれなどしているところからみても、母方の土師氏一族が貴族として重んじられていったことはあきらかで、百姓であった父方とは好対照を示す。高野朝臣と改姓されたのちの和氏一族のその後は、ほとんどわかっていない。
[編集] 平野神社と久度神社
現・京都市北区平野宮本町に鎮座する延喜式名神大社平野神社は高野新笠と縁の深い神社である。平野神社の祭神は今木神、久度神、古開神、比咩神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木神の今木は今来のことで、渡来人を意味する。平城京時代に田村後宮にあった今木大神は高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している。
また久度神は竃神とされ、この神を祭るのは現・奈良県北葛城郡王寺町の延喜式内社・久度神社だけであり、その近くには和乙継の墓もあることから、百済系渡来人和氏が祭祀していた神とされる。とすれば和氏の本拠地はもともとこの当りと推定される。平野神社の久度神は平城京の内膳司に祭られていたというから、王寺町の久度神社から平城宮に移り、さらに平野神社に移ったと考えられている。
[編集] 八幡信仰
奈良時代、新羅との関係が緊張すると、宇佐から八幡神が上京し、和気清麻呂の託宣でも知られるように、にわかにその信仰が高まった。八幡神は神功皇后、応神天皇を祭ったものとされ、三韓平定の説話をともなうことから朝敵や「異境の毒気」とされた渡来の悪疫を払うものと考えられた。神功皇后は母方に「渡来系氏族」の血を引く。それゆえに朝鮮半島を平定する権利があったと信じられていたならば、この時代に育った桓武天皇らが、新羅調伏のためにあいまいな母方の血筋を強調したのはきわめて当然のことであったといえよう。
孝謙称徳天皇の時代、白壁王は暗殺を恐れ、大納言を致仕し郊外の田邑邸で酒色にふける「陽狂」の日々を送っていた。当時は采女といって身分の低い女性が高貴な者に奉仕することがふつうだったので、たまたま情を受けたというのが真相ではあるまいか。帰化人の血筋の有用性を強調したのは、井上皇后一派を謀殺したイメージを払拭するため、桓武擁立派の企てと見るのが自然だろう。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 飛鳥・奈良時代の皇族 | 790年没