武寧王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武寧王 | |
---|---|
{{{picture-type}}} | |
{{{caption}}} | |
各種表記 | |
ハングル: | 무령왕/무녕왕 |
漢字: | 武寧王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ぶねいおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
ムリョンワン/ムニョンワン |
ラテン文字転写: | Muryeong-wang/ Munyeong-wang |
{{{alphabet-type}}}: | {{{alphabet}}} |
武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(余は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。
目次 |
[編集] 生涯
武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年と判明しており、この年は雄略天皇5年、蓋鹵王7年である。
[編集] 『三国史記』の記述
東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。暗殺者の衛士佐平(禁軍を司る1等官)のハク加(ハクはくさかんむりに白)は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。これにより梁からは、もとの<行都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>から<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍>に爵号を進められた。523年5月に死去し、武寧王と諡された。
[編集] 『日本書紀』の記述
武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。
継体天皇6年(513年)に、任那の上哆唎(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下哆唎(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)に己汶(コモム、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。
[編集] 「任那割譲」について
継体天皇6年-7年のいわゆる「任那四県二郡の割譲」については、そもそもの「任那日本府」をどう捉えるかによって解釈が分かれてくる。日本府の存在を否定する井上秀雄は、百済が半島南東方面へ勢力を伸長して伽耶諸国地域を領有するにあたって、第三者立場にあるヤマト王権の調停を要請し、ヤマト王権が百済に有利な裁定を行なったために伽耶諸国にそのことを了解させて領有を果たした、言わば百済の外交にヤマト王権が利用されたものと見ている[1]。また、同じく田中俊明は、百済が自らの力で領土を拡大していったことを記した「百済本紀」などの史料を、『日本書紀』が改変して用いたものと見ている[2]。
[編集] 武寧王の子孫
523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、一部には武寧王は若い頃倭国に滞在しており、淳陀は倭国で生まれ、そのまま滞在していたと主張する説がある。
『続日本紀』には桓武天皇の生母の高野新笠は、この淳陀太子を遠祖とする百済系氏族和氏の出自であると記載する。
[編集] 武寧王陵
1971年に忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には
- 「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。
[編集] 人物画像鏡
和歌山県隅田八幡神社旧蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に、
- 「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る) とあり、「癸未年」(503年)、「男弟王」が大和の「意柴沙加宮」(忍坂宮)にいたときに鏡を作らせて男弟王の長寿を祈った「斯麻」が知られる。これは武寧王のことであるとの見方が強い。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『三国遺事』一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
- 『日本書紀』伴信友校訂 岸田吟香他 1883年 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
- 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972 ISBN 4-14-001172-6
- 森浩一監修 東潮・田中俊明編著『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社、1989 ISBN 4-12-001691-9
[編集] 外部リンク
|
|