魏諷
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魏諷(ぎふう、生年不詳 - 219年)は中国・後漢の西曹掾だった。 字は子京。(文献によっては『子慶』の説もある)徐州沛国(別説では済陰郡)の人。彼は人々を煽動する能力に優れ、若くして鍾繇に推挙され曹操に仕えた。
[編集] 概要
219年に陳禕らと共に鄴でクーデターを起こそうと企てたが、陳禕の密告によって露見し、誅殺された。この反乱未遂事件には騎将・文稷(文欽の父)や、儒者の宋忠の長子宋度、建安七子の一人であった王粲の子息2名(諱は不詳)、張繍の長子の長楽衛尉・張泉などといった名門・高官の子息が約数十人以上も加担していた。なお、相国であった鍾繇も、事件の責任を問われて免職になっている (後に鍾繇は太尉として復権を果すことになる)。