黄庭堅
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黄庭堅(こうていけん、1045年 – 1105年)は、中国の北宋時代の書家、詩人、文学者。字は魯直、号は山谷道人、涪翁(ふうおう)。黄山谷の呼称もある。洪州分寧(現江西省修水県)の人。その詩書画は「三絶」と称され、師の蘇軾(蘇東坡)と名声を等しくして、「蘇黄」と呼ばれる。子孫に清代の詩人、黄景仁がいる。
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[編集] 人物
治平3年(1066年)、23歳で進士に及第、山西太和知県、校書郎、著作左郎、起居舎人、鄂州、涪州、戎州、宜州などの知州を歴任。34歳のころ蘇軾と知り合い、張耒、晁補之、秦観とともに蘇軾門下となり、「蘇門四学士」と称された。
新法派と意見を対立させたため政治的には不遇で四川など辺境に赴任させられている。
[編集] 書法
書法は、初め宋代の周越を手本としたが、その後顔真卿、懐素、楊凝式などの影響を受け、また六朝時代の華陽真逸による碑文「瘞鶴銘」(えいかくめい)の書体から啓発を受けて、丸みの有る文字が連綿と繋がる独自の草書体を確立した。明らかに懐素の影響を受けていながら、筆跡の曲折は手厚く懐素のリズムと完全に異なっている。 また行書は洗練されてなお力強くて、独特の創造的書法をもつ。これらの書法は後世に対して大きい影響を与えた。そのため北宋の書道界の傑出した存在となり、蘇軾と並び評価が高い。黄庭堅と蘇軾、米芾、蔡襄をして宋の四大家と称される。
[編集] 詩文
また詩文にも優れ、杜甫の詩と韓愈の文に造詣が深い。「換骨奪胎」の語で知られる詩論を確立し、後世江西詩派の開祖とされた。 著書『山谷詩集』の中に書道芸術に対してもいくつかの重要な見解を発表している。優れた伝統の継承と個性の創造を強調して、その作品で実証してみせている。
[編集] 参考文献
- 『黄庭堅』中田勇次郎著 二玄社 ISBN 4544013658