アンドレイ・アルロフスキー
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アンドレイ・アルロフスキー | |
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基本情報 | |
本名 | |
あだ名 | ピットブル |
階級 | UFCヘビー級 |
国籍 | ![]() |
誕生日 | 1979年2月4日 |
出身地 | ![]() ミンスク |
現居住地 | ![]() イリノイ州シカゴ |
スタイル | サンボ、キックボクシング |
戦績 | |
総試合数 | 14 |
総勝利数 | 9 |
KO勝ち | 6 |
一本勝ち | 3 |
判定勝ち | 0 |
総敗北数 | 5 |
KO負け | 4 |
一本負け | 0 |
判定負け | 1 |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
アンドレイ・アルロフスキー(Andrei Arlovski、1979年2月4日 - )は、ベラルーシミンスク出身の総合格闘家。前UFCヘビー級王者。高いボクシングテクニックとタックルを切るレスリング力を持つ。またサンボ出身であるため、関節技も使える。ちなみに勝ち試合は全てKOか一本。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 幼少時代
幼少時代はサッカーをしておりポジションはゴールキーパー。またいじめにもあっていた。強くなりたいと思ったアルロフスキーは14歳の時にウエイトリフティングを始めた。18歳で警察学校に入学し、護身術として教えられていたサンボと出会い、驚異的なスピードで上達し、僅か1年後にはサンボ世界選手権で見事に3位に入る。そして翌年には王者となり翌々年には連覇を達成した。また他の格闘術に興味を持ったアルロフスキーはキックボクシングを習い始めた。
[編集] 総合格闘家デビュー
総合格闘家になることを決意したアルロフスキーは1999年にロシアで行われた総合格闘技大会M-1のワンマッチでデビューを果たす。が、結果は1RKO負けだった。今度はM-1のヨーロッパ選手権トーナメントに出場し、決勝でローマン・ゼンツォフをTKOで下し、チャンピオンになった。
[編集] UFC時代
更なる飛躍を目指してアメリカへ渡ったアルロフスキーはUFCへ参戦する。UFCデビュー戦はUFC28でのアーロン・ブリンク戦で、グラウンドの下の状態からブリンクにアームロックを極め、1R55秒、一本勝ち。この頃の自分をアルロフスキーは後に「すぐにでも王者になれるものと思っていた。」と述懐している。慢心があったかは定かではないがUFC2戦目となったリコ・ロドリゲス戦ではUFC初参戦のリコに左右の連打からテイクダウンを奪われ、パウンドでTKO負けを喫する。続くペドロ・ヒーゾとの試合では散発的な打撃に終始してしまい3R、勝負をかけてきたヒーゾにKO負けをし、UFC2連敗となる。
その後アルロフスキー曰く、猛練習を重ね、再起をかけたUFC40ではイアン・フリーマンを1RKOで下し復活を遂げる。UFC44ではレスリング巧者のウラジミール・マティシェンコと対戦。執拗にタックルを仕掛けてくるマティシェンコに対して、それを全て切り、さらに突っ込んできたマティシェンコに右アッパーをヒットさせ1RKO勝ちを収める。UFC47ではウェスリィ・コレイラを打撃で終始圧倒。2RKO勝ち。ついにUFC51では正王者フランク・ミアの交通事故による怪我によって制定された暫定王者を懸けてティム・シルビアと対戦。開始早々に右のパンチでダウンを奪うと、中腰の状態でパウンドを数発落とし一気にアキレス腱固めに移行。シルビアがたまらずタップし暫定とはいえ、念願のUFCヘビー級王者を獲得する。暫定王者初防衛戦となったUFC53では、ジャスティン・エイラーズに格の違いを見せつけ、エイラーズの足の負傷により1RTKO勝ち。UFC55のポール・ブエンテロ戦では開始15秒、ブエンテロの左に合わせた右カウンターでKO勝ち。あまりに一瞬の出来事だったため観客が理解出来ず、ブーイングが起こってしまい、実況も分からずに「何が起こった!」と言ってしまう程だった。この頃のアルロフスキーはUFC40以来6連勝を重ね、圧倒的なポテンシャルを見せ、最早UFCに相手がいないとまで言われていた。