ノート:イデオロギー
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イデオロギーに相当する英単語は確かに ideology なんですが、英語では最初の「i」を二重母音の[ai]で、語尾の「gy」は[dзi]([gi(:)]ではなく)と読むはず。ちょっとミスリーディングな記述と思います。そもそもマルクス主義と一緒にドイツ語から入ってきたのじゃないかと思います。ついては「独 Ideologie」があってしかるべきではないかと。
イデオロギーについて大幅に改変しました。マルクス主義的な見方が強調されていたように思われたので、より一般的な内容になおしたつもりです。--Kanbun 2006年2月19日 (日) 15:03 (UTC)
[編集] イデオロギーの否定的意味についてと『日本の思想』についての議論
丸山眞男についての加筆があったので、我が国における簡単なイデオロギー研究史の項目を作り、そこに丸山眞男もいれました。イデオロギー的であるという定義が一般的にマイナスの要素を持つというのは、たとえば「君の主張はイデオロギー的だ」と言うとき、暗に偏った見方をしているということを示しているという意味です。語法的なことです。--Kanbun 2006年2月23日 (木) 02:13 (UTC)
丸山眞男についての加筆をしたUryahと申します。
イデオロギーという言葉について、本記事にある「また、日常語として漠然と主義主張一般を指すこともある」のつもりでリンクを貼ったところ、「マイナスの評価を含んでいる」という説明が冒頭に出ていたので、言葉の感覚としてちょっと違うなと感じ、しかし語法的に「イデオロギー的である」という言い方にマイナス要素を込めることはあるので、冒頭からはずしてみました(2006年2月22日 (水) 13:34 の版)。
大久保喬樹という人の『日本文化論の系譜』という本に、<近代化に伴って西欧から移入されてきたあらゆる制度的なもの、あるいは、理論的なものに激しく反発することになる。丸山は、これを「あらゆる政治や社会のイデオロギーに『不潔な印象』を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもる思考様式」と規定し、「実感信仰」と名付けて、近代日本知識人の発想のひとつの基本型とした>(引用)という記述があるので、これを重要視した記述なのかと思い、記述する場所を移動するのと同時に、丸山眞男の(言)説も書き入れてみました。
「語法的には一般に」と言われると、やはり違和感はあります。Uryah 2006年2月23日 (木) 13:54 (UTC)
- 以下はイデオロギーが語法的に日本語的にも英語的にもマイナスの意味を持っている裏付けです。やや長い引用です。
- 日本語:「イデオロジーは、それが問題の出発点を――従ってその到着点をも――観念(乃至意識)の研究に限定して了ったから、その解決は、当然或る意味に於て観念的とならざるを得なかったのは、自然の勢だろう。ここではもはや事物は現実的な・着実な・説明を期待することが出来なくなる。それは一歩誤れば空疎な言説・科学上の徒らな大言壮語・に堕ちて行く。(中略)こうなればイデオロジー(イデオロギー)という言葉はすでに嘲笑と非難とをしか意味しない。(中略)だがイデオロギーという言葉が、その本来の真面目な意味内容が何かあった又あるにも拘らず、同時にかかるアイロニーでもあるが、実はこの概念の根本的な実質内容を暗示している。イデオロギーは唯物史観によれば、社会の上部構造――意識――であると共に又虚偽意識なのである。この場合それは利害や好悪によって歪曲された意識を云い表わす。」(戸坂潤『日本イデオロギー論』強調部分はKanbun)
- 英語:「ところで、何か特殊な用語の意味について思いをめぐらすには、それが巷で、どういう意味で使われているかを探ると、いつも得ることがある。(中略)たとえば、もしパブの会話のなかで、「おっと、それはちょっとイデオロギー的ではないか」と誰かが口走ったとしよう。そのひとは、いま相手が話したことを、たんなる虚偽として非難しようとしているのではあるまい。(中略)だいいち、もしそれだけのことだとしたら、なぜ最初から、それは嘘だといわないのか。(中略)ごくふつうの会話のなかでわたしが、あなたはイデオロギー的に話していると主張したとすれば、それは、あなたが、特定の問題に対して、問題の理解を歪めるような、先入主的な観念に凝り固まった発想しかできないということだ。」(T・イーグルトン『イデオロギーとは何か』強調部分はKanbun)
- なお広辞苑は普段使わないので手許になく調べてませんが、手許にある講談社の日本語大辞典はイデオロギーについての同様の定義とともに、イデオローグの定義として「1)口だけで実行のともなわない人。空論家。2)(とくに左翼に言う)理論的指導者」をあげています。--Kanbun 2006年2月23日 (木) 17:00 (UTC)
- また『日本の思想』の引用についていえば、丸山はその新書版「あとがき」で次のように述べています。これもやや長い引用です。「『日本の思想』はこうして、われわれの現在に直接に接続する日本帝国の思想史的な構造をできるだけ全体的にとらえて、現にわれわれが当面しているいろいろな問題(中略)のプロセスなり、それらの問題の「伝統的」な配置関係を示そうという一つの文字通りの試図にすぎない。(中略)元来右のような構想で書かれた「日本の思想」にたいして、その直接の反響が、ほとんど「理論信仰」と「実感信仰」の対比という問題にだけ集中したのは、(中略)意外であった。(中略)なによりこの言葉は理論をそのまま思想として「信仰」し、あるいは実感をそのまま思想として「信仰」する意味で用いたのに、(中略)極端な場合には、あたかも理論を信ずることが直ちに「理論信仰」であり(私自身も一定の対象把握についてA理論についてはB理論よりも正しいと信じている!)、自分の実感を信ずることが「実感信仰」である(自分が信じない実感などはそもそも実感ではない!)かのように通俗化された。」(「『日本の思想』あとがき」強調部分はKanbun)
- よってこのあとがきを信ずるならば、丸山の「実感信仰」も一種の理論的な立場の一形態であると思われ、大久保の理解がUryahさんの引用のような、「近代化に伴って西欧から移入されてきたあらゆる制度的なもの、あるいは、理論的なものに激しく反発することになる。丸山は、これを「あらゆる政治や社会のイデオロギーに『不潔な印象』を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもる思考様式」と規定し、「実感信仰」と名付け」たというものであるならば、それは正しくないように私には思われます(私は大久保の該当著作を読んだことがないので大久保自身の理解についてはあくまで引用箇所だけで判断しています。すくなくともこの引用はUryahさんの裏付けであるようなので、引用箇所を判断するものであり、大久保の該当著作における引用箇所の本来の意味内容については関知するところではないことをお断りしておきます)。丸山の「実感信仰」への言及からはこのような排他性はあまり感じられないように思われます。
- 実際に大久保の引用箇所をあげれば「あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な印象」を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもる思考様式が、ひとたび圧倒的に巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲撓されるときは、ほとんど自然的現実にたいすると同じ「すなお」な心情でこれを絶対化するプロセス」(『日本の思想』55ページ)という部分ですが、このプロセス全体が「実感信仰」であるというのが丸山の主張であると考えます。つまり「あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な印象」を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもる思考様式」は「実感信仰」の実体ではなく、丸山のいう「抽象性や概念性に対する生理的な嫌悪」でしかないと思われます。このような思考様式は「実感信仰」と不可分ではありますが、「実感信仰」そのものではないというのが正しい理解なのではないでしょうか。
- つまり「対象化された理論とその背後のなまの人間の思考様式との分裂」(『日本の思想』新書版61ページ)がおきたときに、後者を「自然的現実にたいすると同じ「すなお」な心情でこれを絶対化するプロセス」が「実感信仰」であり、前者を尊重するのが「理論信仰」であると考えられます。その場合、「実感信仰」とは理論そのものを排斥するのではなく、理論を受け入れつつも現実生活に対する実感を通し、それを無価値化して巧妙に骨抜きにしてしまう立場であるというのが丸山の主張に近いのではないでしょうか。
- 丸山の「「理論信仰」と「実感信仰」は必ずしも同一人のなかに併存するのをさまたげないわけではない」(『日本の思想』新書版62ページの注)という言葉もこのような立場を裏付けているように思われます。とはいえ専門家ではないのでなんともいえませんが。--Kanbun 2006年2月23日 (木) 17:57 (UTC)
- なお個人的な好悪の問題とも受け取られかねませんが、丸山の『日本の思想』は『「である」ことと「する」こと』のような明快な名文を含む一方、全体的には雑然としており、政治学の専門書としてあるいは政治評論としてそれほど深く掘り下げた内容であるとは私は考えていません。どちらかといえば文化的問題を政治学的なことにからめて取り扱った評論といった形式であり、イデオロギーの内容を深く掘り下げて考察するということは見られませんし、日本人の精神構造や文化構造にたいする鋭い指摘を含むものの、荒削りであり『日本の思想』内で扱われている問題は必ずしもこの著作内で完結した丸山自身の説として整理されているかといえば、どうもそうとは考えられないと私は思っています。もし大久保の著作がイデオロギーについて深く掘り下げて扱っているならば、是非そちらのほうを優先して記事内容を加筆してくださると幸いです--Kanbun 2006年2月24日 (金) 12:22 (UTC)
- なお全くの私見ですので記事内容に含めることはできませんが、理解の助けとなるかもしれないので「実感信仰」について私の思うところを記しておきます。たとえば日本語の会話表現において「政治哲学」がしばしば「政策論」と同義に扱われることがあります。「小泉首相の政治哲学は改革だ」というようなとき、実際「改革」というのは政策であり「何らか改善の方向で変革する」という手段です。とすれば政治哲学としてはこの「何らか」の部分が問われるべきであるはずであるのに、実際は郵政改革であるとか有事法案であるとかそういった個々の「現実的な」事例が政治哲学そのものであると一般的に認識されてしまっている、日本人にはそのような傾向があるということを「実感信仰」と呼んだものとかんがえます。すくなくとも「改革」ということであれば民主党であれ公明党であれ社民党であれ、何らかの理念を持って改革をしようとしているところに存在しているのです。
- とすれば小泉首相の政治における本質は小泉首相の米国に対する姿勢であったり、靖国参拝であったり、歴史問題に関する見解であったりその改憲論への主張などにより多く重要なファクターが隠されているかもしれないということを指摘することが出来ます。つまり丸山は日本の国会において、しばしば政策論が政策そのものでしか議論されず、それが政治の本質であるとされていること、一般的な国民にそのような傾向が認められていることに鋭い警鐘を発しているともいえます。
- 同時に丸山はマルクス主義のように全ての問題を階級制度に還元したり、カール・シュミットのように敵対関係が政治の本質であるといったような政治的原理主義あるいは政治的形而上学といったようなものを批判して「理論信仰」と呼び、実際主義的な「実感信仰」とともに批判したのであると思います。以上はあくまで私見であり、丸山の該当箇所からの私なりの理解であります。--Kanbun 2006年2月24日 (金) 13:32 (UTC)
- なお個人的な好悪の問題とも受け取られかねませんが、丸山の『日本の思想』は『「である」ことと「する」こと』のような明快な名文を含む一方、全体的には雑然としており、政治学の専門書としてあるいは政治評論としてそれほど深く掘り下げた内容であるとは私は考えていません。どちらかといえば文化的問題を政治学的なことにからめて取り扱った評論といった形式であり、イデオロギーの内容を深く掘り下げて考察するということは見られませんし、日本人の精神構造や文化構造にたいする鋭い指摘を含むものの、荒削りであり『日本の思想』内で扱われている問題は必ずしもこの著作内で完結した丸山自身の説として整理されているかといえば、どうもそうとは考えられないと私は思っています。もし大久保の著作がイデオロギーについて深く掘り下げて扱っているならば、是非そちらのほうを優先して記事内容を加筆してくださると幸いです--Kanbun 2006年2月24日 (金) 12:22 (UTC)
なるほどなるほど、です。
さて、「イデオロギー的である」という言い方にマイナス要素を込めることはあるので、それがこんなに重要視される、という認識を持つ人と、それには違和感を感じる人がいる、ということがここに明示されたことで、私は、何の異論もありません。実感信仰についてのKanbunさんの私見は、頷ける、興味深く読まさせていただきました。イデオロギーそのものについては、自分に深く書くこと・情報を持ち合わせているのではないので、もし何かありましたら、加筆または相談させていただきますね。ありがとうございました。Uryah 2006年2月24日 (金) 15:15 (UTC)
- いえ、こちらこそ大変勉強になりました。指摘を受けてから手許にある文献を参考に記事内容を読み返したところ、たしかにイデオロギーの否定的な要素を印象づけてしまうような、ややいきすぎた記述もあったかもしれないと思い、適宜編集を施しました。丸山眞男についてはとりあえずそのまま復帰させようと思いますが、『日本の思想』はしばしば論議にあがる著作であり、さまざまな見方が出来ると思います。何か新たな発見や新しい見解などありましたら、是非私にも紹介してください。お互い意見を交換して一緒に勉強させていただきたいと思います。--Kanbun 2006年2月24日 (金) 16:54 (UTC)