ゲーベン (巡洋戦艦)
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ゲーベン/ヤウズ・スルタン・セリム | ||
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艦歴 | ||
ゲーベン | ||
起工 | 1909年12月7日 | |
進水 | 1911年3月28日 | |
就役 | 1912年7月2日 | |
売却 | 1914年8月16日、トルコ海軍へ | |
ヤウズ・スルタン・セリム | ||
購入 | 1914年8月16日 | |
退役 | 1954年 | |
除籍 | 1971年 | |
その後 | 1973年から1976年にかけて解体 | |
要目 | ||
艦種 | 巡洋戦艦 | |
艦級 | モルトケ級巡洋戦艦 | |
排水量 | 常備排水量 | 22,979t |
満載排水量 | 25,400t | |
全長 | 186.5m | |
全幅 | 29.5m | |
吃水 | 9m | |
機関 | 24缶タービン2基 4軸推進 | 85,661wps |
速力 | 最大28ノット | |
航続距離 | 4,120海里(14ノット) | |
乗員 | 1,053人 | |
武装 | 280mm連装砲(50口径) | 5基10門 |
150mm単装砲(45口径) | 12門 | |
88mm単装砲(35口径) | 12門 | |
50cm水中魚雷発射管 | 4門 | |
装甲 | 甲板 | 50mm |
舷側 | 270mm | |
砲塔 | 230mm | |
司令塔 | 350mm | |
言語 | 表記 | |
日本語 | ゲーベン | |
ヤウズ・スルタン・セリム | ||
ドイツ語 | Goeben | |
トルコ語 | Yavuz Sultan Selim |
ゲーベン(Goeben)は、ドイツ海軍の巡洋戦艦、モルトケ級巡洋戦艦の2番艦。第一次世界大戦勃発直後よりトルコ海軍に在籍し、第二次世界大戦後まで運用された。
[編集] ドイツ海軍時代
- 詳細はゲーベン追跡戦を参照
ブローム・ウント・フォスによってハンブルクで建造され、普仏戦争で活躍したアウグスト・カール・フォン・ゲーベンにちなんで命名されたゲーベンは、地中海艦隊の旗艦として配備された。
1914年7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国とセルビアが戦争状態に入ると、ドイツ帝国の参戦に備えてアルジェリア沖へ向かった。8月3日のフランスへの宣戦後に、2日に秘密裏に結ばれたドイツとオスマン・トルコの同盟によってコンスタンティノープルへの回航を命じられた。
ゲーベンは軽巡洋艦ブレスラウと共にアルジェリア沿岸を砲撃した後、イギリス艦隊の追跡をかわしてダーダネルス海峡へ到達、16日にコンスタンティノープルに入りトルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムとして売却された。この時、乗組員はそのままトルコ海軍に移り、引き続きドイツ人の手によって運用された。
[編集] ヤウズ・スルタン・セリム
ヤウズ・スルタン・セリム(Yavuz Sultan Selim)としてトルコ海軍所属となった後は、黒海で活動した。10月28日には艦隊旗艦として、セバストポリ、オデッサを砲撃し機雷敷設艦プルトを撃沈。これによってロシアの宣戦布告を招き、第一次世界大戦にオスマン・トルコも参戦することとなった。ガリポリの戦いにおいては目立った活躍はなかった。11月18日にはロシア艦隊と接触し305mm砲弾を受けて死者13名、負傷者3名を出した。12月26日にはボスポラス海峡の入り口付近で2発の機雷に触雷し、2,000tの浸水が発生、数ヶ月の修理を要することとなった。
1915年4月に復帰し商船2隻を撃沈するが、同年末にはロシア艦隊により強力なインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦2隻が就役、速力に勝るヤウズ・スルタン・セリムは、1916年に行われた2度の交戦においていずれもロシア艦隊を振り切っているが、その行動には大きな制約となった。
1918年1月20日、ミディッリ(旧ブレスラウ)と共にダーダネルス海峡を離れインブロス島近海でイギリス艦隊に遭遇、主力の前弩級戦艦2隻を欠くイギリス艦隊を砲撃してモニター艦M28とラグランを撃沈した。しかし、その後機雷原に突入してミディッリを失い、ヤウズ・スルタン・セリムも3発の機雷によって大破、さらにコンスタンティノープルへの帰還の途上座礁し、イギリス機による数度の攻撃を受けるが、1月26日に離礁に成功して帰還した。
[編集] ヤウズ
第一次世界大戦終了後の1926年より修理が開始され、1930年にはヤウズ・セリム(Yavuz Selim)として再就役し、さらに1936年にヤウズ(Yavuz)と改名した。1938年、ケマル・アタテュルクの遺体をイスタンブールからイズミットまで運んだことで、トルコではよく知られている。
ヤウズは大きな改装がなされることはなかったが、第二次世界大戦後も在籍した。1952年にはNATOの艦番号370を付けたが、1948年には既に象徴的な存在となっていた。1954年に退役し予備艦となった後の1963年、西ドイツ政府より購入の申し入れがあったがトルコ政府はこれを拒否した。1966年、トルコ政府により売却が持ちかけられたが、当時の西ドイツの政治状況の変化により旧時代の記念艦に過ぎないヤウズが買収されることはなかった。結局、1971年に売却、1973年6月7日に港を離れた後、7月から1976年2月にかけて両大戦を経験した最後の巡洋戦艦は解体された。