サン・ヴィンセンテの祭壇画
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サン・ヴィセンテの祭壇画は1883年に発見された祭壇画で、ポルトガルの国宝である。リスボンの守護聖人である聖ヴィセンテの名を課し、16世紀のポルトガルの縮図とも言える作品でもある。 この作品を巡っては、制作者、制作年代、動機、そしてパネルの人物について様様な説が出ており、今日に至るまで決着が着いていない。
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[編集] 制作者と動機
サン・ヴィセンテの祭壇画の制作者については、ポルトガル国王アフォンソ5世に仕えた宮廷画家ヌノ・ゴンザレスと言われてきたが、現在では疑問視されている。
制作動機に関しては、ポルトガルの航海業績を称える為に制作された、或いはアヴィス朝結束を促す為に制作された(アフォンソ5世即位直後に起きた、叔父であるコインブラ公ペドロとの争いの悲劇を繰り返さない為)、更には1471年のタンジール攻略成功を記念する為に制作された等、様様な説が有る。
[編集] 祭壇画の構造
聖ヴィセンテを中央に配する形で6つのパネルから成っている。パネルは向かって左から、修道僧のパネル、漁師のパネル、エンリケ航海王子のパネル、陸軍総司令官のパネル、騎士のパネル、聖遺物のパネルと命名される。
尚、中央の聖人については一般に聖ヴィセンテと言われているが、実はジョアン1世の末子で人質として死んだフェルナンド王子だと言うと言う説、二人の服装が微妙に違っていることから、1147年にイスラム勢力からリスボンを奪回する時に殉教死したサン・クレスピンとサン・クリスピーノと言う2人の兄弟聖人と言う説も有る。
[編集] エンリケ航海王子の肖像画を巡る謎
この祭壇画を巡って最も議論の対象となったのがパネルの人物特定である。特に対象となったのがエンリケ航海王子である。
一般に、エンリケ航海王子は左から3番目の聖ヴィセンテの右側に居る口髭を生やした黒い鍔帽子を被った人物とされており、我々が一般に抱くエンリケ航海王子の画像イメージもこれに従っている。このパネルが俗に、エンリケ航海王子のパネルと言われているのはその為である。 この根拠とされたのが、1837年に発見された『ギネー発見征服誌』である。同書には上記と全く同じ人物の画像が挿入されており、その下にエンリケの標語である“最善を尽くせ”が記されていたからである。
しかし、最近ではこの人物は寧ろ兄のドゥアルテ1世で、エンリケ航海王子は向かって右から2番目の騎士のパネルの最前列で両手を合わせてひざまずいている人物と言うのが有力視されている。顔付き・体格が彫像や当時の記録と一致している事、身に付けている服装及び紋章が彼が団長を務めていたキリスト騎士団の物であると言うのがその理由である。
更には、エンリケ航海王子は最初から描かれていないと言う説も出されており、祭壇画を巡る混迷は益々深まるばかりと言うのが現状である。
[編集] 関連項目
- エンリケ航海王子
- ギネー発見征服誌