シメオン・ベクブラトヴィチ
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シメオン・ベクブラトヴィチ(Симеон Бекбулатович、?-1616年)はカシモフ・ハン国のハン。初名サイン・ブラト(Саин-Булат)。モスクワ大公イヴァン4世(雷帝)によって、1574年頃に短期間「全ルーシの大公」とされた。
彼はチンギス・ハンの血を引く名族の出身であったが、カシモフ・ハン国はモスクワ公国(のちのロシア帝国)の傀儡政権に過ぎなかった。カシモフのハンであったサイン・ブラトは1573年にキリスト教に改宗してハン位から退き、ムスチスラフスキー公の娘と結婚し、その高貴な血統ゆえにモスクワ宮廷で重きをなした。シメオン・ベクブラトヴィチというのはこのとき改宗にあたって与えられた名前である。
1574年頃、以前から奇矯な振る舞いが多かったイヴァン4世は突如モスクワ大公位からの退位を宣言し、シメオンに「全ルーシの大公」という称号を与えてクレムリンの玉座に登らせ、自らは「モスクワ公イヴァーニェツ」と称して彼のもとに伺候した。しかし実権は依然ツァーリの称号を保持するイヴァンの手にあり、シメオンは傀儡に過ぎなかった。
この事件には古来さまざまな解釈がなされているが定説はない。イヴァンの気まぐれや狂気、あるいは貴族たちとの対立を背景とする深謀遠慮に理由を帰す者がある一方、シメオンがチンギス・ハン家(アルタン・ウルク)に連なることから、イヴァンが一度シメオンに位を譲ったあとに改めて譲位を受けることによって、チンギス・ハン家末裔としての権威を得ようとしたという説もある。チンギス・ハン家の血統はモンゴル帝国滅亡後の中央ユーラシアでは支配者の血脈として神聖視されていたので、この解釈にも一理はあると考えられる。
シメオンの在位は一年に満たなかった。彼はまもなく大公位をイヴァンに返還し、トヴェーリに領地を与えられて歴史の表舞台から姿を消した。イヴァン4世死後の動乱時代(スムータ)に一部でシメオンをツァーリに推戴しようとする動きがあったが不成功に終わった。シメオンはロマノフ朝の時代に入った1616年に世を去り、モスクワに埋葬された。