ジャック・カルティエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック・カルティエ(Jacques Cartier、1491年12月31日 - 1557年9月1日)は、フランスブルターニュ地方のサン・マロ出身の探検家。カナダ本土にヨーロッパ出身者として初めて到達した。
北米大陸へ3度の探検を行い、プリンス・エドワード島やセントローレンス河口を発見、またカナダ本土に上陸し、後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いた。
最初の探検行は、フランス国王フランソワ1世の命により、1534年4月に2隻の船でサンマロを出航。
現在のニューファンドランド島およびカナダの沿海部を調査し、セントローレンス湾を横断してプリンス・エドワード島を発見。ガスペ半島の東端に到達し、セントローレンス川の河口付近を探検して、一帯を「ヌーベル・フランス」と命名した。またセントローレンス河口地方のイロコイ族 (St. Lawrence Iroquoians) の首長ドンナコナ(Donnacona)の2人の息子ドマガヤ (Domagaya) とタイニョアニ (Taignoagny) を捕らえ、フランスに連行した。また、先住民との外交を開始した。
第二回の探検行は1535年5月13日、3隻の船と110人の乗組員で行われ、ドンナコナの2人の息子も同行した。 彼は、前年探検したセントローレンス川の河口へ直行、9月7日イロコイ族の村落スタダコナ(Stadacona, 現在のケベック)に到達し、ドンナコナと会した。なお、カルティエはスタダコナとその周辺の土地や川を「カナダ」と呼んでいる。
さらに上流に向い、イロコイ族の要塞村落ホチェラガ(Hochelaga, 現在のモントリオール)へ到達、そこをモン・レアル(Mont Real、フランス語で「王の山」の意)と名付けた(このモン・レアルの英語読みがモントリオールである)。
カルティエとイロコイ族の関係は良好であり、カルティエはドンナコナの家でタバコを振舞われた。また更に北にあるという黄金の地サグェナイ王国(Royaume du Saguenay)について知った。 カルティエは、次回の航海で連れ帰る約束で、首長ドンナコナの息子2人を含む10人のカナダ・インディアンを同行しフランスへ帰国した。1536年7月、カルティエはサンマロに帰帆した。
第三回の探検行は1541年、1500人の開拓移民に先行する形で行われた。スタダコナに到着したカルティエは、ドンナコナが3年前、1539年に死去していたことを知った。
カルティエはサグェナイを探そうと試みたが、ホチェラガより北に至ることはなく、また後続の移民団を待ったが現れず、カナダで厳しい冬を越した後、翌年フランスに戻った。
1557年9月1日、サンマロ近郊の自分の地所で死去した。