スキピオ・アシアティクス
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スキピオ・アジアティクス(Scipio Asiaticus、紀元前2世紀、生没年不詳)はポエニ戦争後期および戦後に活躍した共和政ローマの軍司令官、政治家。本名はルキウス・コルネリウス・スキピオと呼び、父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、弟には父と同名のプブリウス−後のスキピオ・アフリカヌス−がいる。
以下、混乱を避けるため彼を「アシアティクス」、弟を「アフリカヌス」と呼ぶ。
[編集] 経歴
第二次ポエニ戦争後期に弟アフリカヌスとともに参戦、弟とともに年齢よりも若かったが、特例でアエディリスに当選するなど、戦間期を通じて若くして元老院を引率する存在にあった。
弟アフリカヌスの才能に隠れがちな兄アシアティクスという印象が強いが、彼自身も有能な司令官で、190年にコンスル職に当選、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世との戦いで活躍する。そして、弟がアフリカでの活躍で「アフリカヌス」の称号を授かったように、兄である彼もアシア(現在の小アジア)での活躍により「アシアティクス」の称号を授かり、凱旋式の敢行の栄誉を受ける。
しかしながら、彼はスキピオ弾劾の表舞台に立たされる。大カトーなどの元老院保守派により、アシアティクスは金銭の横領の咎で告発され、それが弟アフリカヌスの弾劾にまで広がる。そして紀元前183年にアフリカヌスが没するとアシアティクスは投獄されてしまう。最期にはティベリウス・グラックスにより釈放されるが、横領したとされる金額を返納しなければならなかった。没年は詳しくは分かってはいない。