ダンスホールレゲエ
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ダンスホール・レゲエ(Dancehall Reggae, または略してダンスホールDancehall)は、1979年頃に、イエローマン、スーパーキャット、ブロ・バントンなどのDJによって開発された、ジャマイカのポピュラーミュージックのひとつ。
このスタイルは、生のリディムに即興で言葉を乗せて歌ったりトーストしたりするDJによって特徴づけられる。
ダンスホールのリズムはレゲエよりもはるかに速く、ドラムマシンがバンドの演奏に取って替わった。初期のダンスホールの歌詞には、スラックネス(下ネタ)がよく見られ、ジャマイカの若者の間で非常にポピュラーになった。 このDJ主導の音楽は、そまでのジャマイカのポピュラー音楽の、ラスタファリ運動に根付いた概念から遠く離れ出した。
[編集] 歴史
1980年代初期のダンスホールは、まだ完全にデジタル化していなかった。チャンネル・ワンレーベルではリヴォリューショナリーズ(スライ&ロビーが在籍していた)が活躍し、無機質なリズムと強靭なループに磨きをかけていた。1980年頃は、ピーター・トッシュのワールドツアーでリヴォリューショナリーズが留守がちになり、代わりにルーツ・ラディックスも起用された。チャンネル・ワンのミキシング技術は驚くべきものがあり、16トラックの最新の録音機材で作られるダブやバージョンは80年代中頃までのダンスホールのシーンをリードした。それにイエローマンなどのDJがトーストし、当時としては画期的な「ワン・ウェイ物」(アルバムすべての曲が同じリディムという形式の作品)を多く出すことによって、リディムそのものを聴衆に認識させていった。1979年にはドラムマシンを用いたデジタルサウンドが既にリリースされていたが、チャンネル・ワンのクオリティとは比べられるものではなかった。
1985年の大ヒット曲、キング・ジャミーのプロデュースによる、ウェイン・スミスの「アンダ・ミ・スレン・テン」(Under Me Sleng Teng)は、カシオトーンを用いて作られた。「スレン・テン」のリディムは当時のレゲエ界に旋風を巻き起こした。スレン・テンはキング・ジャミーの人気を大きく上げて、他のプロデューサー達は、すばやく同じリディムを用いたバージョンを、何十人もの違ったDJやシンガーを使ってリリースした。その後もキング・ジャミーは、デジタル・サウンドに早い時期から取り組んでいたスティーリー&クリーヴィー(キーボード奏者のワイクリフ・ジョンソンとドラマーのクリーヴランド・ブラウニー)を起用し、ヒット作を連発する。またリー・ペリーやキング・タビーといった1970年代から活躍するエンジニア達もこぞってデジタル化した作品をリリース。ダンスホールは、完全に「デジタル化」することになる。
[編集] 主なアーティスト
ニンジャマン、タイガー、スーパーキャット、シャバ・ランクスといった新しい世代のDJ達は、暴力的で卑猥な歌詞を曲に乗せ、より速いフロウと、ラスタとは正反対のゴールドをまとったファッションで観客を魅了した。また、ココ・ティー、サンチェス、バーリントン・レヴィなどの 歌手はルーツロックレゲエを踏襲した甘い声を付け加えた。また、すでに売れていたシンガーであるグレゴリー・アイザックス、ジョニー・オズボーン、U-ロイらは、ダンスホール・レゲエへと移行した。
1990年代初め、ドーン・ペンの「No, No, No」、シャバ・ランクスの「Mr. Loverman」、チャカ・デマス・アンド・プライヤーズの「Murder She Wrote」は、アメリカ合衆国と海外での最初のダンスホールレゲエのメガヒットとなる。
1990年から1994年の間、ブジュ・バントン、バウンティ・キラー、シャギー、スプラガ・ベンツ、ケイプルトン、ビーニー・マンらが活躍した。1990年代後半には、ブジュ・バントンやケイプルトンがラスタファリ運動に改宗し、歌詞の焦点をラスタの精神性へと絞った。
1999年から2006年には、エレファント・マン、ショーン・ポール、ミスター・ヴェガスらが活躍。ショーン・ポールはビルボードのトップ10に入る成功を遂げ、ジャネット・ジャクソン、ジャスティン・ティンバーレイク、ネリーといったアーティストと共に録音し、ヒットした。
[編集] ダンスホールレゲエの文化
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