ディベート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディベート (英:debate) とは、議論の形態の一つ。
具体的には、ある議題に対して肯定・否定の2つの立場に分かれ、それぞれの論点を分析・検証し、論証を行い、聴衆や審判員等の説得を通じてより説得的な論を展開するという議論の形態である。この定義は広義のディベートの定義であり狭義のディベートは「競技ディベート」のみを指す。
日本では「よりエキサイティングな討論」といったニュアンスで使われることも少なくないが、これは誤った用法である。
広義のディベートには教育現場での学習に活用した教育的ディベート(academic debate)も含まれる。これは、考え、自己を表明する力の育みという意図で、近年教育場面にかなり導入されるようになってきた。
狭義のディベートである競技ディベートは議論というよりも知的スポーツの側面が強く、形式もいく通りかに限定されている。
目次 |
[編集] 歴史
ディベート形式の議論の発端は古代ギリシアの時代であるとされる。アリストテレスの「弁論術」により体系づけられたレトリックがそれである。
米国では大統領選挙前に候補者同士の討論会があるが、これは広義のディベートの形式で行われるものである。また、肯定・否定・聴衆の3面から、弁護人・検察官・裁判官による裁判も広義のディベートの一つであるといえる。
日本で本格的にディベートが登場するのは明治維新ののちのこと。福澤諭吉をはじめとする学識者らの西欧文明の研究の過程でスピーチやディベートが紹介され、実践されていった。
明治時代には全国各地で、数々の政治問題、社会問題を扱った討論会が盛んに催されていた。その論題としては
- 「普通選挙ト制限選挙ノ可否」
- 「女子ニ選挙権ノミヲ與フルノ可否」
などのほか
- 「死刑ヲ廃スルノ可否」
- 「自由貿易ノ保護貿易ノ可否」
等、現在でも議論が続けられているものもあり、当時の人々の政治的・社会的関心の高さがうかがえる。
しかしここでのディベートもまた、言論の弾圧・検閲・戦争など、時局の移り変わりにより影を薄めていった。
近年再びディベートが注目を集め始めている。企業の入社試験、学校の社会科授業などで広く認知されるようになった。これは、日本人に不足しており、これからの時代に必要であるとされる能力—客観的・批判的な視点、論理的思考力、情報収集・分析・処理能力等—を養うために大きな効果を持っているからだろう。
[編集] 教育現場におけるディベート
国語の教科書にディベートを載せることで、小学校や中学校でディベートを実践する学校が増えてきている。そんな中、全国教室ディベート連盟の「ディベート甲子園」など、中学、高校の生徒が取り組める大会があり、学校ディベートだけではなく、幅広く実践することができるようになってきている。
[編集] ディベートの否定的側面
ディベートは主張の根拠となる事実や資料を提示して、それらに論理的構成された論証を行うことで、論理的な思考の訓練になると一般にされているが、否定的側面がある。
まずディベートの目的は「議論に勝つ事」であり、「正しい事実を知る事」ではない為、科学的客観的議論とは異なる事が挙げられる。 例えば議論の最中に自分が間違っている事に気付いた場合、意見をかえて相手陣営に与するのがより謙虚な態度といえるが、ディベートではそのような事はない。
それは、一つに、一体誰がディベートでの二つの主張において、一方が「勝者」である、つまり「論理的に正しい」と判断をくだすのかという点で如実に現れる。全知全能の神のような存在が審判に当たるのなら、過ちは起こらないとも考えられるが、実際は、判定を行うのは、これも主観的見解に左右されている人間または人間の集団である。その結果、「論理的」であるのかないのか、このこと自体が人間の「主観」で決定されることになり、古代ギリシアにおいて弊害が生まれたように、詭弁論法の横行を許容する可能性がある。
ディベートの起源が古代ギリシアの修辞学にあるとされる通り、まさにディベートの生みの親は、古代ギリシアのソピステースたちだとも言える。しかしソフィストの議論は、いかに相手を言い負かすか、あるいは聴衆を納得させるかという形式的な技術の開発に主眼点が置かれ、ここより詭弁論法の発生を見、そこからの反省として、「論理的とは何か」という問題が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどを通じて、大きな課題として考えられ、古典的な「論理学」もここから生まれた。
政治的な場でのディベート、教育目的としてのディベート、あるいはゲームとしてのディベート、いずれを取って見ても、論理的な妥当性を確保するという面と、他方で、議論に勝てば良いという面の二つが拮抗し、誰が「判定」するのかという面も相俟って、とりわけアメリカのディベートは、詭弁論法への熟達や、その場で言い負かせば良いのだというような実利性を重視し、「論理性」と反対のモメントへと向かう傾向がある。このような詭弁的なディベートの興隆は、訴訟社会としての米国というような、社会学的に異常な事態と表裏の関係を成しているとも考えられる。
[編集] 否定的側面への補足
一方で、一般的なスポーツにも審判員が存在する。スポーツにおいては、審判が存在しなければ(公正な)試合が成立しないのは周知の通りである。このように、ディベートにおいても最終的な審判を下す者が存在しなければ、そもそもディベート自体が成り立たない。同様に、スポーツにおいても審判員の判断に疑問が投げかけられることがある。一般的なスポーツでは、こういった問題を起こさないため、
- 十分な専門教育がなされた審判員のみを登用する
- 単独の審判員を避け、必ず複数人を登用し、問題が発生した場合には審判員同士の合議によって判断を下す
といった方策で公正さを担保している。これは、ディベートにおいても同様に効果がある。また、審判員が自己の判断基準を開示し、明確化することで更にその公正性を高めることができる。また、これらは実際に行われている。
また、否定的側面を捉えた文にもある通り、歴史的に「詭弁とは何か」については深く考察されている。古代ギリシアでは、政治における最低限の枠組み(合意)としての法律が発達していなかったため、ソフィスト達の詭弁の放縦を阻止しにくかったという背景が指摘できる。実際、それ以後に誕生した共和制ローマでは、民法という形で国家における最低限の合意がなされていたため、古代ギリシアのような詭弁家の台頭による問題が発生したという記録はない。このような歴史的経緯により、詭弁であるかの評価基準やそれを阻止する討論形式(ディベートの定義・規則)の成熟化に伴い、現代において典型的な詭弁を成功させることは困難である。また、複数の審判員による評価により、その詭弁成立の難易度が更に高まる。
そして、最後のパラグラフにおいて主張されているのは、ディベートの教育や運営における問題であって、ディベート自体の否定的側面ではない。ディベートとは、論理的な妥当性が認められた参加者が勝者となるシステムであり、そうでなければ「失敗したディベート」である。この失敗したディベートを例にディベート自体を否定することは無意味である。例えば、詭弁を用いて決着が付いた場合、そのディベートは失敗したのであり、論理性が確保されていないことは、ディベート自体ではなく、その運営に原因がある。また、ディベートの結果は審判員が判定するが、判定の公平性を保つ方策は上に述べた通りである。
更に、ディベートの否定的側面によって発生する副次的問題として、「詭弁的なディベートの興隆によるアメリカの社会問題(訴訟社会)」が挙げられている。しかし、ディベートとは詭弁を用いてはならないため、詭弁的なディベートとは、まさに失敗したディベートということになる。失敗した、つまりディベートとは呼べないものの興隆がアメリカの社会問題(訴訟社会)に結び付いていたとしても、それはディベート自体の問題ではなく、ディベート教育や議論上における運営の問題である。つまり、ディベート自体の否定的側面ではない。ルールを無視したスポーツが非難されるように、ディベートのルールに外れた議論が非難されるのは当然である。しかし、ルールに従う限りはスポーツ自体が否定されないように、ディベート自体もまた否定されない。
[編集] 外部リンク
- 日本ディベート協会(略称:JDA)
- 全日本ディベート連盟(略称:CoDA)
- 全国教室ディベート連盟(略称:NADE)
- 日本ディベート研究協会(通称:ディベート大学)
- 全国英語討論協会(略称:NAFA)
- ディベートの歴史 ー十六世紀~明治時代~大正時代ー