デニス・ウィルソン
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デニス・カール・ウィルソン(Dennis Carl Wilson, 1944年12月4日 - 1983年12月28日)は、ザ・ビーチ・ボーイズの結成メンバーの一人。
デニスはウィルソン兄弟の二番目であった。いとこのマイク・ラヴに促され、兄のブライアン・ウィルソンをさそってサーフ・ミュージックを演奏するバンドを結成した。ザ・ビーチ・ボーイズは1961年8月に父親のマレー・ウィルソンの手引きで結成され、直ちに大きな成功を獲得した。バンド名はカリフォルニアのサーフィン文化から名付けられたが、バンドのメンバーで実際にサーフィンを行っていたのはデニスのみであった。
デニスは当初音楽的経験をほとんど持っていなかったが、ドラムの演奏を程なく習得した。しかしながら彼はセッション・ドラマーほどにブライアンの信頼は得られなかった。それにもかかわらず、デニスはバンドのなかで最も人気を得、ステージ上でのセックス・シンボルとなった。
ブライアンのバンドにおける活動が停滞するようになった後、デニスは1968年からバンド内の重要な作曲家となった。彼のデビュー作は『フレンズ』B面に収録された「リトル・バード」であった。1970年にリリースされたアルバム『サンフラワー』での活躍は著しく、4曲もの優れた楽曲を提供してアルバムの完成度向上に大いに貢献した。なかでも「フォーエヴァー」は名曲として名高く、彼の代表作となった。
1969年にシャロン・テート殺害事件が起こるが、当時デニスはチャールズ・マンソンの後見人であった。『20/20』に収録された「ネヴァー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」はマンソンの曲をリメイクした物であったが、この一件でマンソンはデニスに対し報復を示唆した。このエピソードはデニスの余生に大きな影響を与えた。
1970年、モンテ・ヘルマン監督のロード・ムービー『断絶(TWO-LANE BLACKTOP)』のオーディションにジェームス・テイラーと共に合格、主役格のメカニック役で出演した。しかし、彼らをミュージシャンという先入観を持って見られるのを嫌った監督の意向で、当時音楽的に絶頂にあった二人の楽曲は採用されず、難解な内容であった映画も興行的に振るわなかったため、デニスはその後、俳優としてのキャリアを追求することはなかった。
バンド内でのデニスとカールの音楽的進歩はバンドに大きな影響を与え、1980年代にビーチ・ボーイズは「アメリカン・バンド」として再び受け入れられることとなる。しかし、その後のバンドにおけるデニスの音楽的な貢献は、ドラッグやアルコールなどの悪影響もあり、限定的なものに留まった。
1983年12月28日、泥酔状態のデニスはロサンゼルスのマリーナ・デル・レイで自らの所有するヨット「ハーモニー号」の甲板から深夜の海に飛び込み溺死、享年39。彼は1984年1月4日にカリフォルニアの沖合に葬られた。
彼はその死で年の離れた妻、ショーン・ラヴ(マイク・ラヴの非嫡出子)と幼い息子ゲージ・デニス・ウィルソン(1982年生)を遺した。デニスは四度結婚している。キャロル・フリードマンとの間に娘のジェニファー(他にキャロルの連れ子スコットがいる)、バーバラ・シャーレンとの間に二人の息子、マイケルとカールをもうけた。またロバート・ラムの妻であったカレン・ラムとも結婚歴があった。
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