ドミニク・ハシェック
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男子 アイスホッケー | ||
金 | 1998 | アイスホッケー |
銅 | 2006 | アイスホッケー |
ドミニク・ハシェック(Dominik Hašek、1965年1月29日 - )は旧チェコの、ボヘミア・パルドゥビツェ Pardubice 生まれのプロ・アイスホッケー選手で、ポジションはゴーリーである。 愛称はThe Dominator(「支配者」の意)。
ヨーロッパ生まれのゴーリーとしてはNHL史上最も成功した選手といえるトップアスリートである。NHL 加入がもう少し早ければ、パトリック・ロワを凌ぐ成績を残したかもしれないと評価する声もある。
[編集] 来歴
ハシェックは、1983年にシカゴ・ブラックホークスに第11位、全体では第207位でドラフト指名されるが、NHL へのデビューは遅く1990-1991シーズンからとなった。ブラックホークスでは、エド・ベルフォア (Ed Belfour) の控えに甘んじ、2シーズンでわずか25試合の出場に止まった。
1993年の夏には、ハシェックはバッファロー・セイバーズにトレードされたが、これを契機にハシェックはNHL のトップゴーリーとして花開いた。
ハシェックは、最優秀ゴーリーに与えられるヴェジーナ賞を6度、ハート記念賞、レスター・B・ピアソン賞を各2度獲得している。また、セーブ率首位を6度、オールスター戦の第1チーム出場を5度果している。
1998年冬期長野オリンピックでは、チェコチームを率いて同チームに金メダルをもたらした。特に決勝戦ではロシアチームを完封した。シード6カ国の中では弱小と思われたチェコだったがヤロミール・ヤーガーが挙げる数少ない得点をハシェックが神がかりなセーブで守り抜くという同国が誇る2枚看板中心の戦術で臨んだ。これがトーナメントの短期決戦にはピタリとはまり、見事同国初の金メダルに貢献した。プラハでの祝勝会は数十万人の観衆で溢れたという。また、この勝利を題材にしたオペラ「ナガノ」が作られた。
2001年、スタンレー・カップ以外のものはほとんど獲得したといえるハシェックは、当時下馬評が高かったデトロイト・レッドウィングスに移籍する。そして、2001-2002シーズン、ハシェックの念願かなって、チームは会長賞とともにスタンレー・カップを獲得する。
2001-2002のシーズンオフにハシェックは引退をするのだが、その1年後再びレッドウィングスに現役復帰を果す。当時、デトロイトのゴーリーには Curtis Joseph がおり、ハシェックとともに高額の年俸を要した。他チームも Curtis Joseph の高額年俸には難色を示し受入れを拒んだため、レッドウィングスのチーム内に緊張をもたらした。
2003-2004シーズンは、ハシェックにとっては鬼門の年で、股関節を故障した。2004年1月9日、彼は怪我の治療のため2-4週間の休養をとることでチームと合意した。当時、ハシェックはマネージャーのケン・ホランド(Ken Holland)に欠場期間の報酬返上を願い出たとされるが、このときにはその事実は公表されなかった。2月10日になると、そのシーズンの出場を見合わせる旨を発表し、レッドウィングス首脳部を困惑させた。3月12日にホランドとハシェックの会談が持たれ、報酬返上の事実を報道陣に伝えた。このときの返上額は、年俸6百万ドルのうちの半分、3百万ドルであったとされる。
ハシェックは同時代を代表するゴーリーでありながら、またトラブルメーカーとしても知られている。1996年のプレイオフ時には、当時コーチの Ted Nolan を解雇させなければ、今後バッファロー・セイバーズではプレイしないと発言した。ハシェックはこの言葉を実行し、次のラウンドではセイバーズが敗れるのをスタンドで観戦したこともあった。翌シーズン Nolan はチームを去るが、彼を慕うセイバーズの選手達は一様に憤慨したと言われている。
また、2001年のプレイオフでは、トレードかさもなければ引退かを要求した。この要求もとおって、ハシェックはレッドウィングスへ移籍した。
2004年4月、ハシェックはプラハで股関節の手術を行い、故郷 Pardubice で体力を回復した。6月17日、チェコのメディアに対し、2004-2005シーズンはレッドウィングスでプレーしない旨を発表した(結局このシーズンは、ストライキのためシーズン自体が中止となる。)。このインタビューでは、スタンレー・カップを争えるようなチームでプレイしたいとし、特にオタワ・セネターズの名前を移籍候補としてあげた。その後、セネターズはハシェックと複数年契約を行った。
2005-2006シーズン、ハシェクは順調な滑り出しを見せ、リーグトップクラスの成績を挙げていた。 しかし、2006年トリノオリンピックチェコ代表として出場し、その1試合目の途中に足を故障している。 その故障によってオリンピックの残り試合及びNHLのシーズンを棒に振ることになる。 チームはプレイオフに進出し、ハシェクが復帰するのではないかという憶測が流れたが、結局復帰することは無くシーズンを終了した。
2006シーズン終了後のオフに、ハシェクはデトロイト・レッドウイングスと契約し、古巣に復帰する事となった。
カテゴリ: NHL選手 | チェコのアイスホッケー選手 | 1965年生