ナキア
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ナキア(Naqi'a、生没年未詳)は新アッシリア王国時代のアッシリアの王センナケリブの側室の一人であった。息子エサルハドンを王位に付けるべく暗躍し、息子の治世を通じてアッシリア宮廷に隠然たる影響力を振るった。彼女を表した浮き彫り彫刻も発見されており、これは古代オリエントに生きた女性としては稀有な例である。
[編集] 来歴
[編集] エサルハドン擁立
ナキアとは「純潔」を意味する西セム系の名前である。同じ意味のアッシリア語ザクトゥ(Zakitu)の名で呼ばれることも多い。彼女の出身地については明らかではないが、その名前からシリア地方出身者との説がある。
彼女はセンナケリブの寵愛を受けて後宮で強い発言権を得ていた。そして、紀元前694年に、センナケリブの長子アッシュール・ナディン・シュミがバビロニアでエラムとの戦闘に敗れ行方不明になると、アッシリアで王太子の選出問題が生じた。この時センナケリブに自分の息子エサルハドンを後継者に指名させることに成功した。
しかしエサルハドンは王子の中でも年齢も低く、また幼少時より病弱であり、この決定は他の王子達に強い反発を生み出した。後にエサルハドンは残した碑文によれば、彼は兄達が盛んに自分を中傷し、父王に讒言を繰り返したので身の危険を感じて首都を脱出しアナトリア半島へと身を隠した。そして紀元前681年にセンナケリブは、他の王子によって暗殺された。その後の王位継承争いでエサルハドンは勝利し、兄達を追放、或いは殺害して王位を継承した。この一連の事件、特にエサルハドンの首都脱出や、センナケリブ暗殺にはナキアも関与していたという説が有力である。
[編集] エサルハドン治世と死後
ナキアは、エサルハドンの治世中に神殿の建築など従来国王の専権事項とされていた事業を執り行うなどしており、ある面では王に匹敵する政治的発言権を保持していたと考えられる。彼女は息子エサルハドンを支えるべく様々な処置を講じており、エサルハドンの宮殿の造営に際して調度品を用意するなどしたほか、病気がちであったエサルハドンが病に倒れている期間や、遠征で不在の時期にはエサルハドンに変わって政務を担当していた事も確認されている。そして、エサルハドンの息子、アッシュールバニパルをアッシリア王として上位に、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロニア王にするという決定に際してもナキアの関与があったといわれている。
ナキアは息子のエサルハドンより長く生きた。エサルハドンが紀元前669年にエジプト遠征の途中死去すると、王子達や群臣を集めてアッシュールバニパルへの忠誠を再度誓約させて圧力をかけ、内政の安定に努めた。そして引き続きアッシリア政治に大きな影響力を及ぼした。シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュールバニパルより年長(一説には双子)であったと伝えられ、自分の地位に不満を持っていたと考えられるが、10年以上にわたってアッシュールバニパルとの決定的対立は生じなかった。この兄弟の対立が表面化しなかった理由としてナキアの後見の存在があったという説もある。だが彼女も加齢とともに政務に付く事が困難になるや二人の兄弟の対立は表面化し、紀元前652年兄弟戦争が勃発した。この戦いでシャマシュ・シュム・ウキンは敗れ戦死(自殺説あり)に追い込まれることとなった。その後間もなくナキアも死去したと考えられる。