パリの解放
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パリの解放 | |
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![]() 1944年8月25日パリ解放後、凱旋門を通る連合国の戦車とハーフトラックを見るため、シャンゼリゼ通りに集まったフランス人の群集 |
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戦争: 第二次世界大戦(西部戦線) | |
年月日: 1944年8月15日~8月29日 | |
場所: パリ、フランス | |
結果: 連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指揮官 | |
ノルマン・D・コータ、アメリカ第28歩兵師団 フィリップ・ルクレール、フランス第2機甲師団 |
ディートリッヒ・フォン・ホールティッツ、パリ防衛司令官 |
戦力 | |
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損害 | |
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第二次世界大戦におけるパリの解放(Liberation of Paris)は、1944年8月終わりに行われた。ノルマンディの戦いから続く西部戦線の戦いの大きな節目である。
連合国軍がパリへの進軍に急ぐと同時に、パリでは8月15日パリ地下鉄、フランス国家憲兵隊、警察はストライキに入った。翌日には郵便局員が続いた。ゼネストは、8月18日には、都市全域の労働者に広がった。その日、全てのパリ市民が動員され、バリケードが築かれ、市民とドイツの占領軍との間で何日か小競合いが続き、22日には最高潮を迎えた。
ヒトラーはパリを最後まで保持し、都市を破壊せよと言う命令を出していたが、ディートリッヒ・フォン・ホールティッツ将軍は、ルクレール指揮下のフランス第2機甲師団との激しい戦闘の後、8月25日に降伏した。同じ日、自由フランス軍の指揮官であるシャルル・ド・ゴールはサン・ドミンク(Saint-Dominique)の後悔から、軍務省に戻り、ホテル・デ・ヴィレ(Hôtel de Ville)から人々を鼓舞するスピーチを行なった。続く8月26日には、シャンゼリゼ通りで勝利パレードが行なわれた。このパレードはドイツ軍の狙撃兵が残る中行われた。29日には、アメリカ第28歩兵師団によるパレードが行われた。この時には都市は既に安全な状態となっていた。アメリカ軍と自由フランス軍の車両がパリの道路を進むと、喜びに満ちた群集が彼らを歓迎した。パリを解放する戦いにおいて、約1,500人のフランスレジスタンス及び市民が犠牲となった。
2004年の60周年記念式典では、ホテル・デ・ヴィレの外で音楽に合わせて道で踊る人々の間を、当時のフランス軍とアメリカ軍を表す2種類の装甲車両による軍事パレードが行なわれた。
[編集] 関係項目
- ノルマンディ上陸作戦
- ホテル・デ・ヴィレ
カテゴリ: 第二次世界大戦の作戦と戦い | フランスの歴史 | 1944年