フェリクス5世 (対立教皇)
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フェリクス5世(英: Felix V、1383年 - 1451年1月7日 在位1439年 - 1449年)は、元は「温和公(il Pacifico)」ことサヴォイア公アメデーオ(アマデウス)8世(伊: Amedeo VIII、英: Amadeus VIII)。イタリア語ではフェリーチェ5世(Felice V)。バーゼル公会議派に推されて教皇を名乗った。史上最後の対立教皇である。
サヴォイア家の出身で、父はサヴォイア伯アメデーオ7世(1360-1391年)。父の早逝後、サヴォイア伯を継ぐ。1416年、神聖ローマ皇帝ジギスムントから公位を授けられ、サヴォイア公となる。ブルゴーニュ公国のフィリップ2世(豪胆公)の娘マリーと結婚。
[編集] バーゼル公会議
1431年以降、スイスでバーゼル公会議が開催されたが、教皇(エウゲニウス4世)に批判的な公会議主義者が勢力を持ち、対立が続いていた。1437年、教皇側が公会議を東方正教会と合同開催するため、イタリア(フェラーラ)への公会議の移転を発表するとバーゼルの公会議参加者たちは分裂し、教皇に従ってフェラーラに移動するものとバーゼルに残留するものとに分かれた。
バーゼルに残った急進的な公会議主義者たちは教皇権を超える公会議の権威を主張して、これに反対した教皇エウゲニウス4世の廃位を一方的に宣言。1439年、サヴォイア公アメデーオは公会議主義者に推されて教皇フェリクス5世となった。最後の対立教皇である。
エウゲニウス4世のもと、フェラーラの公会議は後にフィレンツェに移転、実現はしなかったものの、カトリックと東方正教会の合同を決議するなどの成果を挙げた。一方、バーゼルの公会議主義者たちはその過激さのために信用を失墜させてゆき、1443年に財政難のためにフェリクス5世の地元ローザンヌに移動した。このころになると、かつて公会議主義者たちを支持した諸侯も見切りをつけて、教皇側を支持するようになった。
バーゼル公会議は、1449年に教皇ニコラウス5世によって閉会が宣言され、ほとんどの支持者を失ったフェリクス5世も1449年4月7日に退位した。
廃位後はサヴォイア総代理司教となった。1451年死去。
[編集] 関連項目
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