プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ
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プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ(Publius Valerius Publicola、紀元前503年没)は共和政ローマ初期の政治家。ルキウス・ユニウス・ブルートゥス亡き後コンスルに就任。「プブリコラ」とは「民衆の友」を意味する。
彼の出自はサビニ人で、祖先はティトゥス・タティウスの在位の際にローマに移り住んだと言う。ブルートゥスとは同輩ではなかったが、王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスの追放に彼は並々ならぬ貢献を果たした。そしてルキウス・タルキニウス・コッラティヌスの後にブルートゥスとともにコンスルを勤める。
ブルートゥスの死後、彼は単独のコンスルとなったが、人々はこれを彼が王位を狙っているのではと恐れた。そこでウァレリウスは自らの屋敷を手放し、ローマ市民の権利を守る法を作った。すなわち
- 王となろうと試みる者はいかなる時においても殺されるべき
という法を制定する。
彼は紀元前503年に没するが、葬儀は国費で出され、ローマの女性は十ヶ月の間喪に服した。