ルイ・アントワーヌ・ド・サン・ジュスト
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ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュスト(Louis Antoine Leon de Saint-Just、1767年8月25日 - 1794年7月28日(フランス革命暦II年テルミドール10日))は、ロベスピエールらと共に革命活動に身を投じた若き革命家。レオンの後に「フロレル」の名を記した文献もある。
1767年、ニヴェルネ州ドシーズに生まれる。父ルイ・ジャンは騎士の称号を持つ農民出身の軽騎兵隊大尉、母マリー=アンヌ・ロビノはドシーズの公証人レオナール・ロビノの娘であった。幼少期をヴェルヌイユの司祭だった伯父アントワーヌ・ロビノの元で過ごしたのち、1777年、両親とともにエーヌ県ブレランクールに移る。
1785年、ソワソンのオラトリオ派の学院を修了後、1788年にランス大学法学部に入学。入学後1年を経ずして学士号を取得した。
1789年にはエロティックな風刺歌「オルガン」を地下出版し、伝統、権威、カトリック教会、国王を批判。追われる身となる。
1790年には23歳で国民衛兵隊長となり、その年の7月14日の連盟祭に参加。1791年には「革命及びフランス憲法の精神」を発行し、革命の最中にあって最も若い理論家となる。
その生涯において数々の名演説を残すが、もっとも有名なものは1792年に8月10日の革命後に行われた国王裁判での「処女演説」。サン=ジュストは弱冠25歳の若さで国民公会議員として参加。その痛烈かつ冷徹な演説により、ルイ16世の処刑を決定付けた。しかし、運命の「テルミドール9日」(1794年7月27日)の翌日、最後の演説を反対派に妨害されて果たせぬまま、ロベスピエールと共に26歳の若さで断頭台の露と消えた。
その美貌と冷厳な革命活動ゆえに「革命の大天使 (Alchange de la Revolution)」との異名をとる。