ローマ字論
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ローマ字論とは日本語の主たる表記をローマ字とすべきだという主張、論。 第二次大戦後の米国占領軍(GHQ)らは、日本語に使用される文字数(特に漢字)が異常に多いために日本語の習得は困難であり、それは日本の民主化を遅らせると考え、文字数を減らすために日本語の主たる表記をローマ字とすべきだと主張した。当時の新聞社にも賛成のものが多かった。印字が楽になるからである。
このように主張する人をローマ字論者という。
類似の主張にカナ書き論もある。
その後、GHQは日本の識字率の調査を行ったが、識字率が高かったため、結局ローマ字論は実行に移されなかった。
[編集] ローマ字推進団体
上記のような主張は明治時代初頭からあり、それを推進する団体として「羅馬字会」(ろーまじかい)が1885年(明治18年)創立された。羅馬字会はローマ字綴りとしてヘボン式ローマ字を採用したが、会員の一人で物理学者の田中館愛橘が、五十音図に基づくローマ字綴り(のちの「日本式ローマ字」)を提案。結局会では採用に至らず、田中館は羅馬字会を離れた。ヘボン式と日本式との長い対立は、ここから始まっている。
1905年(明治38年)、ローマ字論者の大同団結を図る組織として「ローマ字ひろめ会」(RHK)ができ、綴りは会員各人の自由とされた。しかしその後、会としてヘボン式を採用。日本式論者は離れ、1921年(大正10年)「日本ローマ字会」を組織した。
日本ローマ字会は日本式ローマ字の普及・推進活動を行なったほか、その出版部門「日本のローマ字社」(NRS、1909年設立)で会の機関誌『Rômazi Sekai(ローマ字世界)』や寺田寅彦著『Umi no Buturigaku(海の物理学)』などのローマ字書き書籍を出版した。田中館の弟子で、田中館とともに日本ローマ字会の中心人物となった物理学者・田丸卓郎の著した『ローマ字国字論』は、戦前・戦後を通じて「ローマ字論者のバイブル」と言われる。
ヘボン式と日本式という二様のローマ字綴りの存在する問題を解決すべく、昭和初期に「臨時ローマ字調査会」が設置され、1936年(昭和11年)答申が出された。この答申に盛り込まれたローマ字綴りは、内閣訓令として制定されたことから「訓令式ローマ字」と呼ばれている。日本ローマ字会はこれに賛成、ローマ字ひろめ会は反対した。
戦後、日本ローマ字会と日本のローマ字社は分かれ、前者は京都を、後者は東京を本拠とする訓令式ローマ字の推進団体となった。1990年代、日本ローマ字会の会長に梅棹忠夫、日本のローマ字社の理事長に柴田武が就任。2団体の大同団結が図られ、合同大会が毎年開催されるようになった。
同じころ日本ローマ字会では、訓令式ローマ字で長音を表す字上符(â, î, û, ê, ô)が、実用では省かれたり、ワープロやパソコンでのローマ字書きの障害になっているとして、これを使わない試みを始めた。その中で現代仮名遣いに基づくローマ字綴りの実用を試み、1999年正式な綴りとして採択。「99式ローマ字」と名づけ、以来提唱している。一方日本のローマ字社はあくまで訓令式を守り、今日に至っている。
[編集] 参考文献
梅棹忠夫『日本語の将来 -ローマ字表記で国際化を-』(日本放送出版協会、2004年)ISBN 978-4140910016