ノート:世界観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
英語ではworld viewという訳語であってもそれほど違和感はないため、頻繁に使用されているそうだ。が、ドイツ語のWeltanschauungという語と等価の概念が英語圏には存在しなかったということで、そのままweltanschauungが借用されたことがあるらしい。 うほっ!興味深い! 日本語での「世界・観」という合成語も確かに違和感はない。私たちはどんな世界観でこの「世界観」という概念を使用しているのか?
[編集] POVの問題はないか?
IP:60.40.161.232さんのおかげで一気に文章量が増えましたが、ぱっと見にはかなりエッセイ風です。POVになってはいないのでしょうか? 哲学史あたりに詳しい方の判定が欲しいところです。 -- NiKe 2006年2月22日 (水) 06:03 (UTC)
- 世界観という概念は、かなり多義的で執筆する人によって内容の見出しかなんかも大分異なると思います。(独語版や英語版見ましたけど互いに両国の特徴が出てます。)哲学分野以外の世界観についても、いずれはほしいですね。ざーっと見なんですが、とりあえずはいいんじゃないでしょうか。--ケンチン 2006年2月22日 (水) 10:45 (UTC)
- ただ、○○イズムの部分の説明は、他の項目と重複しやすいしうまいこと整理できるいいですが。あと世界観なら、ディルタイと歴史主義と生の哲学あたりについても触れられるといいですね。--ケンチン 2006年2月22日 (水) 10:56 (UTC)
[編集] 誤用の部分
うーむ、戻されている。一般的な意味合いでは、様々な創作作品なんかで表現されているその作品の世界描写みたいな事さすんだし、ここ部分最初書いた人はそういうこと言いたかったじゃないかな。「…世界観とは、上に述べた哲学的根本衝動を持つ者が現実を把握しようと努めるときに得るものであり~」って勝手にそんなにハードル高くしないでもらいたいな。。--ケンチン 2006年2月23日 (木) 11:37 (UTC)
- 世界観はオタクが誤用している言葉の代表みたいなものとして広く知られているような。「すべからく」とかと同じ感じで。--Saintjust 2006年2月23日 (木) 11:40 (UTC)
- なるほどそうなんですか。その世界は全く無知なので…なら「誤用」なんでかね。--ケンチン 2006年2月23日 (木) 11:46 (UTC)
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- 「観」とあるからには「世界の見方(観方)」を意味するはずなのに、『その架空世界についての様々な設定』を指して「世界観」と呼んでいる気分ケースが多々あります。こういうのは「誤用」と言わざるを得ないでしょう。ただ、ある種の法則みたいなもの(「ヒーローは最後に何らかの形で勝利する」「勇気は必ず報われる」あるいは「何かもが全て虚しく消える」「人類は取るに足らない存在でしかない」など)が架空世界について存在している時など、そのような法則類は(哲学的なものとは違うが)「世界観」と呼ぶのがふさわしいと思われることもあります。ですから、現在の記述にはちょっと不満を感じますね。 -- NiKe 2006年2月25日 (土) 04:11 (UTC)
- 私も哲学的世界観のみの記述に終始して、日常会話における慣用的な世界観の語法(それが仮に偽りのものであるにせよ)を「トリビア」とか「誤用」とかいう形で本論から締め出すことには反対です。哲学的内容について整理を加えてから、日常言語レベルにおける用法についても詳しく補完しようと思っています。Wikiぺディアの中立性はこのような「本質」と「実際」という段階においても中立的な立場をもつことだと私は考えます。多くの人がこの問題に関心を持ち、積極的に加筆やアドバイスをしあって「世界観」の記事内容に深みを持たせることができればと思います。--Kanbun 2006年2月25日 (土) 04:23 (UTC)
- 百科事典に日常会話のしかも誤った用例など記す必要はありません。字引的内容はウィキペディアの基本方針に反します。国語辞典はウィクショナリーでやってください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:10 (UTC)
- 後半部分に日常言語的な世界観を定義しました。これは字引的に用語・用法を示そうというのではありません。たとえば「ガンダム的世界観」とか「ロードス島戦記的世界観」は単独で定義可能であり、固有の意味内容を持っています。その基礎に文脈的な意味での世界観が基層として存在していることは否定できません。その限りにおいて哲学的世界観とは別個に、日常的世界観は定義可能であり、それは単なる用例にとどまるものではないと私は主張します。おそらくこれから日常言語的世界観についても加筆が進むかもしれませんし、それぞれの立場を尊重して分離してもかまわないかもしれません。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 20:48 (UTC)
- まるまる独自調査の作文にしか見えないので、何らかの信頼のおける論文なり書籍を引用して貴方の書いた日常会話における世界観解説の正しさを裏付けてください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:53 (UTC)
- 大塚英志著『キャラクター小説の作り方』のなかで以下のようなことが主張されています。同書から作品世界における世界観について重要な指摘をしている箇所を引用します。
- 「「世界観」が「世界」の「観」方である、というのはアニメやまんがやキャラクター小説においても変わりがありません。ただ「世界」がニューギニアの××族の「世界」ではなく、物語の中の「世界」である、という違いだけです。(中略)この「世界観」に創作の比重を強く置くことが「文学」に対する「キャラクター小説」のもう一つの特徴とも言えます。」(『キャラクター小説の作り方』221ページ)
- 大塚は映像作品のノベライズとかキャラクターや舞台設定を他の小説に依拠している文学作品を「キャラクター小説」と定義し、そのオリジナリティは既存の文学とは異なる領域で評価されるべきだとします。キャラクター小説が「世界設定」を既存のキャラクターに依拠しているから「オリジナル」なものではないという主張に反対して、個々のキャラクター小説単独の「世界設定」とは別に、その基層としての「世界観」を想定し、それが作品の創作において重要な価値を持っていると主張しています。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:23 (UTC)
- つまり「世界観」がたとえ同じようなものであっても、作品のオリジナリティはそれとは別個に評価されるべきである。というのが大塚の主旨であると思われます。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:26 (UTC)
- この「世界観」が日常の言葉の意味での「世界」の「観」方であるという意味で、日常言語的な定義としました。もちろんweltanschauungの訳語である哲学的世界観とは異なり、現実世界に直接的に立脚していないことは明らかです。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:31 (UTC)
- ちなみに歌舞伎の江戸時代用語である「世界」もこれと同じ意味であり、ホラー小説やファンタジー小説においては古典的な考え方であると大塚は主張しています(ここらへんは『指輪物語』や『ナルニア国物語』、『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』をふまえていると思われます)。私はこのような文学史的なことはよくわかりませんが、もし古典的な文学用語あるいは文学概念としての「世界観」が認められるならば、哲学的世界観ほどではないにしろ、伝統をふまえており独自に価値を認めることにやぶさかではないでしょう。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:42 (UTC)
- また私自身は詳しくないので、大塚を信用することしかできないのですが、大塚は業界用語としても「世界観」は定着されていると説きます。大塚自身は漫画家の麻宮騎亜がとある出版記念パーティで「もっと世界観のしっかりした作品を描きたい」と述べたことを象徴的に記していますが、そのころから「設定」という言い回しが「世界観」という言い回しに変わっていったと述べています。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 21:51 (UTC)
- なお誤解であれば問題ないことですが、「独自調査の作文」というような表現を222.3.78.19さんは否定的に用いてるように感じられます。Wikiはつまるところ「独自調査の作文」の集積みたいなところです、個人が独自に「中立的観点」と思うことを信じて記事を書くという意味で。「独自調査の作文」という表現が「空理・空論や単なる憶測を用いた作文」を意味して言っているのであれば、私自身は自身に可能的な最大限の知識を用いてWikiに参加しているという認識をもっていますから、そのような言い回しには当然憤りを感じます。222.3.78.19さんが何か積極的な根拠をもって日常言語に立脚した「世界観」概念を否定できるのであれば、それは大いに結構ですし傾聴に値しましょう。しかし用語の本来的な成立事情が哲学的であるから、Wikiペディアも哲学的な「世界観」概念以外は無視してもよいというような主張であるならば、この場合なんら積極性をもたないことは明白です。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 22:24 (UTC)
- またWikiペディアの百科事典的性格を考えれば、信頼のおける論文なり書籍を引用するのは当然でありますが、すべての知識がそのようなところから得られるというようなことは保証されていません。論文や書籍に明確的に示されていないとしても、概念や物事それ自体は確固とした意味を持っているということもあり得るでしょう。そのため私自身は物事に対する理解におけるあらゆる蓋然性に対する配慮という意味においてもWikiペディアが引用万能主義に陥ることを警戒します。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 22:33 (UTC)
- まるまる独自調査の作文にしか見えないので、何らかの信頼のおける論文なり書籍を引用して貴方の書いた日常会話における世界観解説の正しさを裏付けてください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:53 (UTC)
- 後半部分に日常言語的な世界観を定義しました。これは字引的に用語・用法を示そうというのではありません。たとえば「ガンダム的世界観」とか「ロードス島戦記的世界観」は単独で定義可能であり、固有の意味内容を持っています。その基礎に文脈的な意味での世界観が基層として存在していることは否定できません。その限りにおいて哲学的世界観とは別個に、日常的世界観は定義可能であり、それは単なる用例にとどまるものではないと私は主張します。おそらくこれから日常言語的世界観についても加筆が進むかもしれませんし、それぞれの立場を尊重して分離してもかまわないかもしれません。--Kanbun 2006年2月26日 (日) 20:48 (UTC)
- 百科事典に日常会話のしかも誤った用例など記す必要はありません。字引的内容はウィキペディアの基本方針に反します。国語辞典はウィクショナリーでやってください。--222.3.78.19 2006年2月26日 (日) 20:10 (UTC)
- 私も哲学的世界観のみの記述に終始して、日常会話における慣用的な世界観の語法(それが仮に偽りのものであるにせよ)を「トリビア」とか「誤用」とかいう形で本論から締め出すことには反対です。哲学的内容について整理を加えてから、日常言語レベルにおける用法についても詳しく補完しようと思っています。Wikiぺディアの中立性はこのような「本質」と「実際」という段階においても中立的な立場をもつことだと私は考えます。多くの人がこの問題に関心を持ち、積極的に加筆やアドバイスをしあって「世界観」の記事内容に深みを持たせることができればと思います。--Kanbun 2006年2月25日 (土) 04:23 (UTC)
- 「観」とあるからには「世界の見方(観方)」を意味するはずなのに、『その架空世界についての様々な設定』を指して「世界観」と呼んでいる気分ケースが多々あります。こういうのは「誤用」と言わざるを得ないでしょう。ただ、ある種の法則みたいなもの(「ヒーローは最後に何らかの形で勝利する」「勇気は必ず報われる」あるいは「何かもが全て虚しく消える」「人類は取るに足らない存在でしかない」など)が架空世界について存在している時など、そのような法則類は(哲学的なものとは違うが)「世界観」と呼ぶのがふさわしいと思われることもあります。ですから、現在の記述にはちょっと不満を感じますね。 -- NiKe 2006年2月25日 (土) 04:11 (UTC)
一部のヲタクの誤用を正したところ、粘着質な利用者「Kanbun」によって呆気なく戻されました。ここを見る限り、過去にも同様の経緯があったようです。百科事典の性格を理解せず、意味不明な用語を書き並べる愚行を繰り返す人物を正したいですが、私にはこのような粘着質な利用者と編集合戦をするほど退屈していないので、間違った記述のまま放置します。--59.129.62.94 2006年12月22日 (金) 03:19 (UTC)署名付加--Kanbun 2006年12月22日 (金) 04:53 (UTC)
- そうですか。次は正しい用法を適切な出典に基づいて提示していただけると幸いです。また発言の際には説明責任を果たすためにも、署名を忘れないようにしていただけますよう、謹んでお願い申し上げます。--Kanbun 2006年12月22日 (金) 04:53 (UTC)
延々と一人の人間が粘着してるわけですね。大塚某という人物の誤用を盾にして、無数にある正しい「世界観」の用法に食って掛かるとは笑止千万です。「出典を出せ」と、悪魔の証明を要求するに至っては開いた口が塞がりません。上記の方と同様、私も馬鹿馬鹿しいので放置したいと思います。--oregenki 2007年3月7日 (水) 06:22 (UTC)
そうですか。「世界観」の正しい用法が「無数に」あるのに、大塚某という人物の主張が「誤用」であると出典もなしに言い切れるoregenkiさんの主張の方が、私には「馬鹿馬鹿しい」です。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 06:48 (UTC)
わずか26分で粘着さんから反応をいただきました。「誤用であるという出典」とは物凄い詭弁ですね。それでは、「大塚某が誤用ではない」という出典を示してもらいましょう。広辞苑、大辞林、平凡社の百科事典を見ても、どこにも「フィクション世界の世界設定やコンセプト」などの記述は皆無です。ま、頑張って粘着して、今度は24分の記録を切るように頑張って下さい。--oregenki 2007年3月7日 (水) 08:46 (UTC)
- とりあえず「世界観」と関係のない話題でノートを汚すのはお慎みください。私の編集履歴などに文句をつけたいのでしたら、別途コメント依頼をご利用ください。いちいち24分がどうこうなんて、なんだか私の方が粘着されているような気分です。上の記述は単なる捨てぜりふにしか見えません。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 11:11 (UTC)
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- それと「『誤用であるという出典』とは物凄い詭弁ですね。それでは、『大塚某が誤用ではない』という出典を示してもらいましょう。」という主張は全く正当性を持ちません。Wikipedia:検証可能性とWikipedia:独自の調査をよく読まれますよう。端的に言えば、oregenkiさんが大塚某が誤用しているというのは、検証可能なソースで示されているわけではありませんので、独自の調査に過ぎません。一方、大塚某自身は信頼できる出版社から出された著作において、この用法について言及しているわけですから、少なくともウィキペディアに記載するには十分な条件を整えています。平たく言えば、oregenkiさんの全く個人的な見解と広く流通している書籍で確認できる大塚某の主張のどちらかが信頼できるかと言えば、私には圧倒的に大塚某です。相手の意見は何でも詭弁、自分の意見は絶対だというようなoregenkiさんのような方がいらっしゃいますが、少なくとも最低限の裏付けくらいは取ってから編集していただけないでしょうか。「広辞苑、大辞林、平凡社の百科事典を見ても、どこにも『フィクション世界の世界設定やコンセプト』などの記述は皆無です。」って、これこそ悪魔の証明でしょ(笑)。←の文もそうだけど、oregenkiさんの考え方って、「大塚某の用法が誤用でないという証明がない」ことから「誤用である」としてますよね?これは明らかにおかしい。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 11:29 (UTC)
答えに困って沢山書きましたね。ご苦労様。早く「大塚某が誤用ではない出典」を出して下さい。広く出版され何度も版を重ねている辞書、辞典に掲載がないにも関わらず、大塚某という誰も知らない人物の出版物を元に誤用ではないと主張しても、残念ながら説得力がありません。このノートを見る限り、一人で粘着しているのは、カナブン君だけですよ。さぁ、急いで粘着レスをして記録更新してくださいね。--oregenki 2007年3月7日 (水) 13:33 (UTC)
- 「大塚某という誰も知らない人物」ってoregenkiさんが知らないだけですよ。少なくともoregenkiさんよりは有名です。oregenkiさんの論法で行くと、大塚某より誰だか分からないoregenkiさんの出典のない主張の方が「残念ながら説得力がありません」。「『大塚某が誤用ではない出典』を出して下さい」という点には、「『大塚某の用法が誤用でないという証明がない』ことから『誤用である』」とすることは明らかにおかしいという点を指摘しました。上で「上記の方と同様、私も馬鹿馬鹿しいので放置したい」とか言いつつ、粘着しているのはoregenkiさんの方では?それにカナブン君って誰?(笑)--Kanbun 2007年3月7日 (水) 13:57 (UTC)
カナブンちゃん、残念。記録更新ならずです。次は頑張ろう♪--oregenki 2007年3月7日 (水) 14:02 (UTC)
- いや、そんなこと言って、oregenkiさんの方が立派に「記録更新」してるわけですが♪とにかく本記事と関係ない、どうでもいい書き込みはご遠慮下さい。--Kanbun 2007年3月7日 (水) 14:08 (UTC)
[編集] 項目の整理
こんにちは。記事内容が冗長で雑然としていると考えましたので、冒頭部分を改変いたしました。これ以降の部分についても改変し、また既存の記事との形式的な整合をおこなおうと思っています。--Kanbun 2006年2月24日 (金) 23:52 (UTC)
- なお養老孟司を擁護するわけではありませんが、養老孟司に対する批判的な言説は削除いたしました。「見ること」が「理解すること」であるかというようなことと同じように、「意識すること」が「理解すること」であるかというようなことも問うべきであると思われます。世界観というような問題が脳神経のホルモンの働きや電気信号にすぎないというような議論はおよそ哲学的に成り立ちうるとは考えられませんが、脳がわれわれ自身の内部的な存在であるにもかかわらず、他者的なものである以上その理解に哲学的価値は当然あります。もし脳のある種のはたらきや欠陥によって、われわれの認識に変化をおこしたり支障をきたしたりするのであれば、認識論的な立場からも脳外科的な問題を扱うことは無価値ではないということができるでしょう。--Kanbun 2006年2月25日 (土) 00:18 (UTC)
やたら多い赤字の参照についてはカットしています。ない記事を参照することはできませんし、これから書かれるそれらの記事がここで扱っている問題をふまえて書かれるというようなことも漠然と期待することが出来ません。--Kanbun 2006年2月27日 (月) 01:14 (UTC)
理気二元論についてですが、もととなった陰陽二元論は北宋時代にすでにあらわれてますし、理・気の二元論的立場を明確にして大成したのは南宋の朱熹ですが、理論的に先鞭をつけたのは北宋の程伊川です。また理という用語は北宋時代も哲学的に用いられていたようです。そのため南宋のリンクを北宋に改めました。自分で書いててなんですが、「流行」という表現が波紋を呼びそうなので改めようかとも思います。程伊川を意図的に無視したのではなく、この記事に中国哲学の詳しい解説を載せるのは不釣合いだと思ったので、メジャーな朱熹のみ具体名をあげるようにしました。誤解を招いたようなら申し訳ありません。--Kanbun 2006年2月28日 (火) 09:34 (UTC)