中川久通
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文3年5月28日(1663年7月3日) | |||
死没 | 宝永7年2月28日(1710年3月27日) | |||
別名 | 主膳(幼名) | |||
官位 | 従五位下、因幡守 | |||
戒名 | 天真院 | |||
墓所 | 大分県竹田市城北町の碧雲寺 | |||
藩 | 豊後岡藩主 | |||
氏族 | 中川氏 | |||
父母 | 父:中川久恒、母:池田光政の娘 | |||
兄弟 | 中川久通、鍋千代、熊千代 | |||
妻 | 正室:酒井忠清の娘 | |||
子 | 主膳、亀次郎、中川久忠 娘(加藤泰統室)、娘(藤堂高敏室) 娘(秋月種弘室) |
寛文3年(1663年)5月28日、第4代藩主・中川久恒の子として生まれる。延宝5年(1677年)閏12月に従五位下、因幡守に叙任する。元禄8年(1695年)の父の死去により、家督を継いで藩主となった。
元禄10年(1697年)、幕命により臼杵藩の稲葉知通と共に豊後一図絵(元禄郷帳)の付図を献納した。しかし藩政においては菩提寺である碧雲寺の焼失、地震による倒壊、正室の早世など災難が相次ぎ、それによる出費がもとで財政難を招いた。このため、宝永5年(1708年)に家臣から半知借り上げを実施し、さらに三男の久忠と共に二元政治を開始して藩内の安定化に努めている。またあ、土木政策にも尽力した。
宝永7年(1710年)2月28日に死去。享年48。後を三男の中川久忠が継いだ。
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