仙石忠俊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
仙石忠俊(せんごくただとし、?-?)は、安土桃山時代から江戸時代(初期)にかけての武将(大名)。仙石政俊の子。妻は浅野光晟の娘。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍して中山道を進軍するも上田城攻めで真田軍に阻まれ、関ヶ原本戦に遅れてしまう。その後、仙石氏は上田城に入る。忠俊は三代目城主となるはずだったが、28歳の若さで病死した。 忠俊は幼名主税助(ちからのすけ)といい、『改選仙石家譜』によると、明暦三年(1667)以降は忠俊も参勤交代をしており、父政俊在府の年は子忠俊が上田在城、その翌年は政俊は上田で、忠俊は江戸というように、父子交代で参勤する態勢をとっているようである。 忠俊は承応三年(1654)十四歳で従五位下兵部少輔に叙任しているが、家督を相続しないうちに、寛文七年(1667)江戸に於いて、享年二十八歳で死んでおり、遺骸は上田に送られたが、何故か太郎山麓和合沢の入口の台地に葬られ、宝永三年(1706)仙石氏所替となるに及んで本場寺墓所へ改葬されている。あるいは側室の子であることを慮ってのことであったのかもしれない。 忠俊は天資英明にして寛大で、明君の資質を備えていたと伝えられていて、仙石氏は惜しい人を失うとともに、この辺りから仙石氏の不運が付きまとい始める。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 戦国武将 | 仙石氏