ノート:伊東甲子太郎
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> 伊東は、薩長等の倒幕派に接近するため、坂本龍馬を殺した犯人が新選組の原田左之助だと証言した。
とありますが、何に基づいてのご意見でしょうか? 『水戸幕末風雲録』に残っていた刀の鞘について証言したという記述はありますが、史料としてそのまま使えるほど強いものとは思えませんし、「薩長等の倒幕派に接近するため」というのは創作としてはよくありますが、信頼できる史料で見たことがありません。
全般的に現時点では、尊王と倒幕をほぼイコールで書かれてますが、伊東の論は倒幕ではありません。
まず本文に最上段の部分の書き込みをしたのは私ではないことをお断りしておきます。上段の、現場に落ちていた鞘が原田左之助のものだと伊東が証言したというのは信頼性としては確実ではありません。ただ、「鳥取藩慶応丁卯筆記」によると、土佐藩が幕府老中板倉勝静に「松山藩を脱藩して新撰組隊士になった人が犯人だ」として逮捕を要求したという記述がありますし、別の箇所には「現場に黒塗りの鞘が一つ落ちていた」という記述もあり、まるっきり信頼度に欠けるということにはならないようです。後段の方は全く同意見です。別な人が書いているように、伊東が朝廷に出した建白書を読むと、基本的には龍馬に近い穏健な思想で、倒幕論ではありません。また、伊東が薩摩人や倒幕派から「新撰組の一員だったということで信用されない」と嘆いたことや、近藤に招かれた時に周りに止められた伊東が「不幸にして自分が殺されることになれば、御陵衛士が幕府側ではないことが証明されることになる」と言って赴いたという逸話が残っていることから(史談会速記録などより)、信用されていない伊東たちが薩摩の刺客となって龍馬を殺した実行犯だとする説が誤りであることも明らかだと思います。また、近藤の暗殺を企てたというのは信頼できる史料や証言で一つもありませんし、暗殺を企てている人間がそのターゲットの誘いにまんまと乗るのも不自然すぎます。また、伊東が生涯で斬った人が最後に殺された時の刺客の一人だけというのも、暗殺をするような人物ではないことの傍証になりえます。新撰組ファンが伊東を不当に悪者にする面があるようです。特に反対がなければ、本文に修正を加えたいと思います。--歴史研究家 2007年2月13日 (火) 06:55 (UTC)
正式な名乗りは云々とありますが、当時の志士たちのほとんどは後付けでつけたようなものばかりですし、わざわざ書く必然性が無いと思います。 村田蔵六は長州に正式に召し抱えられるにあたって、「大村益次郎」の名前と平氏(あるいは藤原氏)と自称しました。正式な名乗り、所謂本姓などそのようなもので、信憑性は推して知るべしというものなので、必要ないとおもいます。あくまでも「本姓+諱」というのは参内した時の朝臣として名乗る程度のものですし、当時の人々にそう呼ばれていたわけでもありません。