伊達村和
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文元年8月25日(1661年9月18日) | |||
死没 | 享保7年6月29日(1722年8月10日) | |||
別名 | 鶴千代丸(幼名)、左京、将監(通称) | |||
戒名 | 寂照院定岳恵印 | |||
墓所 | 宮城県仙台市青葉区青葉町の無為山東昌寺 | |||
官位 | 従五位下、美作守 | |||
藩 | 陸奥水沢藩主 | |||
氏族 | 伊達氏 | |||
父母 | 父:伊達綱宗、母:三沢清長の娘・初子 養父:伊達宗景 |
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兄弟 | 伊達綱村、伊達村和 | |||
妻 | 正室:三沢宗直の娘・於常 | |||
子 | 伊達村詮、伊達卯三郎ほか |
[編集] 生涯
寛文元年(1661年)8月25日、仙台藩の第3代藩主・伊達綱宗の次男として江戸品川屋敷にて生まれる。仙台藩の第4代藩主となった伊達綱村の同母弟である。初め、兄の養子となる予定であったが、実子誕生によって縁組は解かれる。11歳で元服して田村氏の分家を創設する事となり、「田村顕孝」を名乗る。
延宝3年(1675年)閏4月15日、留守政景の曾孫にあたる水沢伊達家の伊達宗景の養子となり、名を「伊達村任」と改める。貞享元年(1684年)には2万1千石に加増された。
元禄8年(1695年)7月6日に兄から3万石を分与されて水沢藩主となり、「村和」と改名する。同年、従五位下、美作守に叙位・任官される。元禄9年(1696年)には徳川家綱の17回忌における公家接待役を務めるなどしたが、元禄12年(1699年)9月9日に重陽の節句を参加するために江戸城に登城するとき、旗本の岡孝常と喧嘩して手傷を負わせたため、幕府より咎められて9月26日に謹慎を命じられる。後に兄に身柄を預けられることとなり、水沢藩はこの事件が原因で改易され、3万石も仙台藩に戻されることとなった。村和は兄より毎年金200両・米2千石を支給されて宮城郡内に幽閉された。
村和はその後、享保4年(1719年)になってようやく罪を許され、翌年に出家して定岳と号した。享保7年(1722年)6月29日に死去。享年62。
子の伊達村詮は父の死後に改めて2千石を与えられて仙台藩の一門衆(川崎伊達家)として遇され、子孫は幕末まで存続した。
[編集] 系譜
- 実父:伊達綱村
- 養父:伊達宗景
- 室:於常(三沢宗直の娘)
- 伊達村詮
- 伊達卯三郎
- 三沢村清(三沢村為養子)
- 伊達駒五郎
- 伊達村倫(伊達村永養子)
- 養子:伊達村景(伊達村元の子、元は綱村の養子。水沢伊達家を継承)
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