保科正率
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 宝暦2年2月11日(1752年3月26日) | |||
死没 | 文化12年10月4日(1815年11月4日) | |||
別名 | 秀太郎(幼名) | |||
戒名 | 安居院殿偶性一光大居士 | |||
墓所 | 東京都杉並区和泉の大円寺 | |||
官位 | 従五位下、弾正忠、越前守 | |||
藩 | 上総飯野藩主 | |||
氏族 | 保科氏 | |||
父母 | 父:保科正富 母:永井直期の娘・華愕院(於喜井) |
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兄弟 | 保科正率、九鬼隆晃、保科清定、 保科直儀、保科正温 |
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妻 | 正室:黒田長邦の娘・於艶(蘭香院) | |||
子 | 保科正徳、娘(榊原政令室) 娘(保科永次郎室) |
宝暦2年(1752年)2月11日、第6代藩主・保科正富の長男として江戸で生まれる。明和7年(1770年)7月5日、父が隠居したため、家督を継いで第7代藩主となる。12月には従五位下、弾正忠に叙位・任官する。寛政2年(1789年)4月、越前守に遷任する。
寛政3年(1791年)10月、大坂定番に任じられ、享和元年(1801年)5月まで務めている。そのほかにも大坂加番を3度、日光祭礼奉行を2度ほど歴任している。享和2年(1802年)6月3日、家督を子の保科正徳に譲って隠居し、以後は南御殿で余生を送った。
文化12年(1815年)10月4日に死去。享年64。
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