劉シン
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劉諶(りゅうしん、238年?-263年)は、劉禅の五男。北地王の地位にあった。生母は王貴妃とも張皇后とも言われる。字は不詳。家系は劉氏。
[編集] 略伝
劉禅の子は多くは父同様に暗愚な人物が多かった。しかし、この劉諶だけは聡明で剛毅なところがあったという。
正史では、263年、魏が蜀漢に侵攻してきた際、国に殉じて自殺したとの記録が残るのみである。
演義では、滅亡する蜀の最後を飾る人物として登場、父の劉禅が魏に降伏しようとしたのに反対し、徹底抗戦を主張した。だが、劉禅はこれを聞かずに降伏することを決めてしまった。劉諶は、妻の崔氏(一説では崔州平の孫娘ともされる)と三人の息子と共に祖父・劉備の廟の前で国を失うことを謝り、妻子を殺して自分も自殺したのである。