十一年式軽機関銃
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正式名称 | 十一年式軽機関銃 | |
全長 | 1,100mm | |
銃身長 | 443mm | |
重量 | 10.3kg | |
口径 | 6.5mm 三八式歩兵銃実包 | |
装弾数 | 30発(最大) | |
発射速度 | 500発/分 | |
製造国 | 日本 | |
製造 | 中央工業 他 |
十一年式軽機関銃は、大日本帝国陸軍によって1922年(大正11年)に制式採用された軽機関銃である。設計は南部麒次郎による。大日本帝国陸軍が初めて制式採用した軽機関銃。
目次 |
[編集] 新しいカテゴリー『軽機関銃』
歴史上初めて機関銃が本格的に使用された近代戦は日露戦争で、日露両軍が相当数の機関銃を配備して戦った。この日露戦争において、日本軍は巧みに機関銃が配備されたロシア軍の防御陣地に苦戦し、歩兵の攻撃前進が完全に封じ込まれ、大損害をこうむった。ロシア軍の機関銃の圧倒的な火力に対抗する為には、攻め手の日本軍も機関銃を配備しなければならなかったが、当時の機関銃は大型で重量もあり、歩兵と共に速やかに移動することが難しく、また機関銃を使用した戦術や機関銃に対抗する戦術も日本ではまだ確立されていなかった為、日露戦争初期の段階では日本軍は機関銃を有効に活用することができず、ロシア軍側の機関銃の戦果ばかりが目立つ結果となってしまった。
その後大日本帝国陸軍は三八式機関銃や三年式機関銃で機関銃の国産化に成功するが、これらの銃は大型でどちらかと言えば防御兵器の色合いが強く、さらに運用するには何人もの兵士を必要とした。機関銃を歩兵と共に行動できる攻撃的兵器として運用する為には、従来よりも大幅にコンパクト化する必要があった。そのため新しいカテゴリー『軽機関銃』の開発が進められる事となる。
[編集] 国産軽機関銃
有名な銃器設計者である南部麒次郎により国産軽機関銃の研究・開発は進められ、様々な試行錯誤の後、1922年(大正11年)十一年式軽機関銃が完成する。この機関銃の特徴は、その独特の給弾システムにある。 当時世界で使用されていた機関銃の給弾システムは、専用のマガジンや、専用の保弾板を使用したり、ベルト給弾をするものが大半で、これらの給弾システムの何れもが専用の部品を必要とした。しかし、十一年式軽機関銃の給弾方法は専用の機材等を必要とせず、歩兵が装備する小銃と同じ弾帯を使用できた。当時、日本軍が使用していた三十八年式小銃は、銃弾が5発束ねられたクリップを使用し銃に弾を装填していた。十一年式軽機関銃はこの弾が束ねられたクリップをそのまま使用できた。つまり、機関銃であっても小銃と同じ補給で運用でき、独自の補給系統を必要としなかった。この事は、小資源国家である日本にとって大きな利点と言え、設計者もそれを狙って小銃用のクリップを装てんするシステムにしたと思われる。 この設計思想は、考え様によっては今日の分隊支援火器(SAW)に通ずる戦術思想とも言える。
初期の軽機関銃と言うこともあり、他国には例を見ない独特のデザインがされていた。中でも銃床がグリップ部に連結しているスタイルは特徴的である。
[編集] 理想と現実
十一年式軽機関銃本体の左側には装填架と呼ばれる箱型の固定弾倉があり、その上部から中に5発の弾が束ねられた小銃用のクリップを入れ装填する事ができた。クリップは最大で6個入り、最大装弾数は30発になる。さらにこの銃には装填した弾丸に油を塗布する装置があり、スムーズな作動を促した。
小銃と同じクリップを使って弾を装填できるというシステムは確かに画期的であった。しかし、この独特の給弾システムは、マガジン式や保弾板式に比べ内部構造がどうしても複雑なものになる。そのため、最前線の過酷な条件下では故障が続出し、兵士達を大いに悩ませる結果になってしまった。また弾に油を塗布する装置も、弾に塗られた油に埃や砂が付着してしまい、逆に故障を誘発する原因になってしまった。これらの事から、この銃に対する兵士からの評判はあまり芳しいものではなく、まともに30発を連続発射する事はほとんどなかったとも言われる。この後開発される九六式軽機関銃では、マガジン方式の給弾システムに変更されることとなる。
[編集] 再評価
傑作とは言い難い評価しか受けなかった十一年式軽機関銃であるが、その生産自体は1941年ごろまで続けられたとする資料もある。また、充分に整備された条件下であれば故障を起こすような事は少なく、連続発射にも充分対応できたとも言われる。最初の軽機関銃と言うこともあり、運用する側も慣れていなかったことを考慮すべきであり、この銃は不当に低く評価されているのではないか?とする意見もある。