千葉成胤
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千葉 成胤(ちば なりたね、1155年4月5日(久寿2年3月2日)-1218年5月6日(建保6年4月10日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉氏の第5代当主。第4代当主・千葉胤正の子。
通称は千葉介。1180年、祖父常胤や父と共に源頼朝の挙兵に参加して功を挙げた。千葉氏の記録によると頼朝の挙兵に参加する際、後世の憂いを絶つ為に、叔父胤頼と共に下総目代(おそらく現在の市川市国府台周辺か?)を攻めた。更に目代を攻め滅ぼした後、千葉に戻ってきたところで、下総藤原氏(平氏の家人)において下総国司を任じられた藤原親正が千葉に侵入。現在の千葉駅から蘇我駅の間にかけて合戦になったと言う。これも打ち破り胤頼と供に祖父、父を追い上総国府(現在の市原市能満あたりか)の頼朝の陣に帰参した。
1189年、奥州藤原氏討伐にも加わって功を挙げた。1203年の父の死により、家督を継いで当主となる。1213年、泉親衡の反乱を未然に防ぐという武功を挙げた。同年の和田合戦においても北条義時側に与して功を挙げた。
1218年4月10日に死去し、後を長男の千葉胤綱が継いだ。