士徽
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士徽(しき、165年?-?)は、後漢末期から三国時代にかけての武将。士燮の子。
父・士燮の死後、呉の孫権から安遠将軍・九真太守に任命された。しかし父の代から交州を治めていた士徽はこれに対して不満を持ち、孫権に対して反乱を起こした。孫権はこれに対して呂岱らに軍を預けて鎮圧に向かわせたが、士徽の抵抗は頑強で、城を落とすことはできなかった。
しかし援軍の無い籠城戦に展望は無いため、士徽は兄・士祗の説得を受け、自分の命を助けるという条件のもとに開城・降伏した。しかし呂岱は士徽を許さず、 士徽は兄の士祗もろとも会見場にて処刑されたのであった。首は、武昌にて晒されたという。