大友義鑑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大友 義鑑(おおとも よしあき、文亀2年(1502年) - 天文19年2月12日(1550年2月28日)没日は2月13日とも)は大友義長の子で豊後の戦国大名。子に大友義鎮(宗麟)・大友晴英・大友親貞。本姓は藤原氏。
大友氏の二十代目当主で、大友宗麟の父に当たる。大友氏は先代の義長の時代に内紛を収拾しており、義鑑は積極的な領土拡大政策に乗り出した。そこで義鑑は大勢力のいない肥後国に勢力拡大を図ったのである。
肥後国には名族・菊池氏がいたが、当時の菊池氏は内紛のために弱体化していた。そこで義鑑は、弟の大友重治(菊池義武)を養子として送り込むことによって、肥後国の支配を目論んだのである。しかし義武は、義鑑と折り合いが悪く、ついには大名として大友氏からの独立を画策したため、義鑑は弟と骨肉の争いを繰り広げることになる。
また、義鑑は後継者でも問題を起こし、病弱な嫡男の義鎮より、溺愛している3男の塩市丸に家督を譲ろうとした。そのため寵臣の入田親誠と共謀して義鎮派の家臣を次々と殺害していく暴挙に至った。この殺害に身の危険を感じた義鎮派家臣の逆襲を受けることになる。1550年、ついには義鎮派家臣の津久見美作らが、義鑑の居館を襲撃、居館の2階にいた塩市丸とその母を殺害し、義鑑も瀕死の重傷を負い、2日後に死亡した。これが有名な「二階崩れの変」である。
この事件においては、通説では義鎮は無関係といわれているが、近年では義鎮も関与していた節があるという説もある。また、義鑑は下克上の世の中では、血縁関係の無い重臣たちには裏切られず、血縁関係のある一族に裏切られるという不思議な人物だったので、この事件ももしかすると義鎮が影にいたのかもしれない。
|
|
|