大野博
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大野博は、現在の千葉県船橋市出身の海軍軍人で、父は大野善兵衛、母は正子。大野善兵衛は製麩業のかたわら、町議などをつとめた。大野博は、大野善兵衛・正子の次男で、船橋市本町の実家(屋号:麩屋)があった近くに墓がある。
船橋尋常高等小学校から千葉中学(現・千葉高校)に進み、1930年(昭和5年)4月に海軍兵学校に61期生として入学、1933年(昭和8年)卒業。 海兵卒業後は、軍艦浅間、山城、羽黒に乗艦した。日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)4月、特別陸戦隊副官兼第五艦隊司令部附となり、5月厦門(アモイ) 島攻略戦で敵前上陸、同島占領。1938年(昭和13年)11月には海軍大尉に昇進した。1939年(昭和14年)2月2日伊号第六三潜水艦の航海長兼分隊長として訓練に参加、豊後水道の水の子灯台付近で碇泊中の同日午前6時4分、伊号第六三潜水艦は僚艦である伊号第六〇潜水艦に追突され、沈没。この事故は、伊号第六〇潜水艦が、伊号第六三潜水艦の舷燈と艦尾燈を漁船二隻の燈火と見誤り、間を通り抜けようと直進したことによる。なお、伊号第六〇潜水艦は、艦首に大きな損傷を負ったが、沈没を免れた。 この事故で大野博大尉も、伊号第六三潜水艦の81名の殉職者の1人となった。大野博大尉は、同日少佐に特進。享年二十八歳。法名は、輝海院殉勇博道大居士。この事故で沈没した伊号第六三潜水艦の船体の引揚げ、殉職者遺体の収容は、翌年1月下旬にようやく行われた。
なお、この大野博少佐の思い出について、短いエピソードであるが、「船橋地誌~夏見潟を巡って」(長谷川芳夫著・2005年)のなかに筆者の父親の言葉として紹介されている。