宋教仁
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宋教仁(そうきょうじん、1882年4月5日 - 1913年3月22日)は、中国清末民初の革命運動家、政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。
幼少より塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年、黄興を知り排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと華興会を創設し、副会長に推される。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝に露見し、同年末日本に亡命する。
1905年6月、法政大学に入学する。雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。7月、宮崎滔天を介して孫文を知る。8月、興中会、光復会、華興会が合併して中国同盟会が成立する。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺し、遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1908年、『間島問題』を著す。1910年末、帰国する。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立する。
同年10月、武昌蜂起が起き、宋も武昌に入った。11月、北一輝と上海にいたり、各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任した。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任した。
しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとした。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考えた(詳しくは後述)。そこで革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝した。
この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗した。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月、上海駅頭で宋を射殺した。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしている。
[編集] 宋教仁の思想
宋教仁は、中国の伝統的学問を身につけていたが、科挙の廃止に伴い革命を志向するようになった。
宋は終始孫文に対立した革命家であると言われる。革命戦略については孫文の唱えた辺境根拠地革命に対し、宋は長江流域における都市革命を主張し、中部総会を設立した。また、宋は孫文の唱えた大総統制に対し、議院内閣制を主張した。孫文が強力な権限を持つ大総統による統治を望んだのに対し、宋は民主的な議院内閣制を主張したのである。
無論、その背景には袁世凱大総統の独裁をどう抑えるか、という問題があったのだが、宋は議院内閣制により大総統の権限を抑制しようとしたのであった。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至った。実際、民国初期の段階で政治的主導権を握ったのは、孫文派ではなく、宋教仁であった。
このように孫文と対立し、また孫文が軍事力で袁世凱に対決しようとしたのに対し、宋は法を以て対決しようとした事から妥協的であるといわれ、「革命右派」と呼ばれ、中国では批判されてきた。しかし1970年代以後、日本でも宋教仁研究が進み、現在では現実的な愛国者であると評価されるようになってきた。
[編集] 参考書籍
- 宋教仁著・松本英紀訳註『宋教仁の日記』、同朋社出版、1989
- 松本英紀著『宋教仁の研究』、晃洋書房、2001
- 片倉芳和『宋教仁研究』、清流出版、2004