小山田昌行
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小山田昌行(おやまだ まさゆき、(生年不詳 - 1582年(天正10年))は戦国時代の武将。甲斐武田家臣。父は小山田昌辰。通称は六左衛門、備中守。名は他に昌重、信常。子に小山田昌盛。小山田信茂とは別系統である。
譜代の重臣として信玄麾下で旗本として先鋒を務め、騎馬70騎を預かる。武勇に優れ、槍の名人であった。海津城代も務めた。
1575年(天正3年)の「長篠の戦い」で、敵将・松平伊忠を討ち取る活躍を見せたが戦いには敗北し、散々な状態で甲斐に帰還した。その後に家督を子の昌盛に譲り隠居生活に入った。
1582年(天正10年)3月、武田勝頼の討伐を目論む織田信長が「打倒武田氏」の号令を発し、織田遠征軍が信濃への侵入を開始した。昌行は仁科盛信が城主を務める高遠城救援に向かった。仁科盛信の副将として織田信忠率いる大軍と籠城戦を繰り広げた。仁科盛信、息子の小山田昌盛、弟の小山田昌貞と共に討死した(高遠城の戦い)。